2015年05月01日

紫微鸞駕(しびらんが)発刊25周年(建築士会中部支部)への寄稿

 私は現在、沖縄県建築士会中部支部に所属しています。
何はともあれ、この支部は愉快な仲間がたくさんいて、機関紙である「紫微鸞駕」をとうとう25回も編集・発刊してしましました。継続は力なり・・・すばらしい支部力です。
 私はもともと熊本県建築士会のメンバーですが、25年前から縁あってこのユニークで活動的な支部に入りました。かつて日本建築士会連合会の理事や青年委員長も経験しているので、全国の士会の実態は分かっているつもりです。そのうえで言えることですが、この会は楽しさ・仲間意識・実績・お酒の強さでは「日本一」と思っています。 
 それでは、25周年記念号に寄稿した文を掲載いたします。

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【沖縄県建築士会中部士会 機関紙「紫微鸞駕(しびらんが)」の25周年記念号の表紙】


                    私と建築士会   
                                        後藤 道雄
1、建築士会活動のきっかけは「御礼奉公」
 私と建築士会のつきあいは、昭和48年の二級建築士合格と同時に入会してからなので、43年になります。その後めざした一級建築士試験の対応は、当時、日本建築士会連合会が企画・編集したテキストを姉妹団体である財団法人日本建築文化事業協会が実務・運営していた「日本建築大学(講座)」でした。建築学の高等教育と人格の陶冶(とうや)の両面を目的としていたので、単なる受験講座ではありません(当時の連合会長、協会理事長ともに松島俊之氏)。
 学費は安いのに教授陣は東大や筑波大、早稲田大などの大学教授をはじめ、郵政官房、鹿島、竹中など施工の実務専門家など他には類を見ない多彩な指導者も魅力のひとつでした。また、一般の建築学に加えて、防災工学、環境工学、日本建築史、東洋建築史、構造特論、仕様、木構造Å・Bなど興味深い教科もありました。だから、ここで学ぼうとした人たちのなかには多くの一級建築士もいました。
 ここを正規3年で卒業できれば、一級建築士試験は楽に合格できるという噂だったので、素直に挑戦しました。仕事の合間に必須の18科目と選択2科目をレポートと春季・秋季試験、年2回の集中スクーリングで単位を取るのは大変でしたが、知らない知識と新しい友人との出会いがあって楽しく過ごせました。

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【当時、毎月送られてきた「学生サロン」の表紙】

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【図面やレポートへの添削、試験の解答、質問に対する解説などが掲載されていました。】

 噂通り、一級建築士試験は、昭和51年、受験番号43(熊本)0001番・1回でパスできました。この時期も現在と同じように総合の合格率は10%前後(12.6%)の厳しい国家試験でした。受験1回で学科・製図の両部門の合格は数%(8.7%)でした。(製図は今と同じように、次年度に再受験の機会あり)
待っていたのは「建築士会への入会」でした。建築士会連合会が開催していた教育活動で合格したのだから、そのお返しをしよう、ということがきっかけです。
 活動は熊本県建築士会の青年部会からスタート。最初は相談委員会に属し、毎週繁華街にあるデパートの5階の片隅で建築相談を担当しました。その後、相談委員長になったころ、地元紙のコラムを相談員4名で受け持ち約1年担当しました。
 昭和59年、下積みの青年部会のころ、熊本で全国大会が開催されましたが、その準備に1年間ほどは追われました。大会当日も一日中駐車場係で県外の誰とも話すことはありませんでした。

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【青年部会相談委員長時代の新聞コラムの一部】

 全国とのつながりはその翌年でした。建築士研究集会(集いの前身)で九州代表に選考され、滋賀大会の第3分科会で(その後近畿の青年委員)今は大阪府建築士会の会長になった岡本氏などとともに発表しました。青年部の共通テーマは「国際青年年に語る」でしたが、私は通信大学の復活も訴えました。

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【「くまもと青年けんちく塾」の開催。「通学路を取り巻く建築環境」の主テーマに合わせて支部活動報告】

2、主体性な活動に着手
 それから熊本県建築士会で青年部会長(2年)、九州ブロック青年建築士協議会委員長(2年)をへて日本建築士会連合会青年委員になりました。
 それまで県青年部会長の選出は前任者の指名で馴れ合い的でしたが、選挙の形で民主的に行いました。公約は「自主的・主体的事業の実施」でした。具体的には「くまもと青年けんちく塾」を開催し、新しく特別事業研修委員会(後の通学路委員会)や環境問題研究会を発足させました。通学路委員会は帯山西小学校を中心に全県の支部で「視点1メートルのまちづくり」を展開しました。その結果、建築士会が地域の団体と協働し、危険個所の是正や潤いのある通学路づくりに貢献しました。特に、熊本市内50数校の境界塀がブロックから見通しの良いフェンスにすべて変わったことはうれしいことでした。
 6年後、通学路研究会の活動は連合会まちづくり大賞のグランプリを受賞、環境問題研究会では県民提案で入賞した新屋敷周辺親水公園化構想に向けて活動。それに対して熊本市が巨費を投じて事業化しました。

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【建築士会と地元がひとつになって活動し、事業化した新屋敷大井出周辺親水公園化構想(一部規模縮小)】

3、改革に失敗はつきもの
 九州ブロック青年建築士協議会委員長になる平成3年、「九州パッション」を創設しました。鹿児島の大迫氏、長崎の山口氏、大分の佐藤氏、佐賀の三原氏などと事前に作戦を練って、新しい地域研修のあり方を模索しました。6月は全国大会選考、2月は交流を目的に開催地を県庁所在地に限らず、かつ、地域の建築文化に触れる内容に切り替えました。
 第一回の「九州パッションin ASO」(メインテーマ:通学路を取り巻く建築環境)には200名の青年会員が貸し切ったSL「あそBOY」で集結しました。合言葉は「九州はひとつ」。沖縄から西山氏と佐久本氏の2名が参加されました。各県紹介も北の福岡県が定番でしたが、南の沖縄県から、また、地域の象徴である方言で自己紹介するようしました。ところが、沖縄の方言はむずかしく、発表した佐久本氏の隣にいた西山氏に全部「通訳」してもらう羽目になりました。
 またこれまで二次会で本音が出る日本の会議の実態を見てきたので、会場入り口で缶ビールを出しました。おかげで和気あいあい、本音の議論ができました。ただ、責任者の私は当時九州ブロック建築士会の会長だった 右田氏から「不謹慎!」とお叱りを喰いました。
 失敗はもうひとつあります。九州各県青年部に依頼して「九州はひとつ」を実感するため地酒を持参して鏡割りを計画しましたが、鹿児島と沖縄は「焼酎」だったので、「日本酒」とのブレンドになってしまい、とてもおいしいとは言えないお酒になりました。

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【地下水保全、非常水の確保、節水が目的の「無数の地下ダム構想」NHK朝のニュースで全国放送される】

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【地元紙(一般紙)の社説に取り上げられた。かかわる仕事の中で2,500トンの地下ダムを民間で導入しました】

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【不要な間伐材を活用した杉合板の開発。開発の結果、熊本県の特記仕様書に「国産材杉複合材」として表示され、以降、県庁第二庁舎新築や県ビジターセンターなどの公共事業の型枠に採用されました】

4、建築士は皆、平等!
 しかし、その後の佐賀大会でテーマを与えず「無題」とした全員参加型のグループディスカッション形式は、のちに「佐賀方式」と呼ばれ、全国大会でも採用されることになります。九州パッションは以後400名規模で推移して20年以上続き、先日、発祥の地・熊本県(山鹿市)で終了したようです。
 九州ブロックでは沖縄は遠方だから旅費がかかるという理由で2月の集いは2年に一度くらいしか開催していなかったのを、「どこを中心に考えているんだ!」と意見し、毎年、九州各県を持ち回りするローテーションを確立したのもこの時です。全員参加もローテーション作りも基本には、建築士会員はみな平等、せっかく時間とお金を使うなら有意義に過ごしたいという考えが根底にあったからです。
 この姿勢は全国の各ブロックから注目されていました。今後の青年部会活動がどういう方向でいくのか、楽しみです。

5、連合会青年委員長(連合会理事)時代
 連合会の青年委員会は7ブロックの代表者14名で構成されていました。その青年委員長に地方(九州)出身者がなることは第3代目にして初でした。(2代目委員長は現・京都府建築士会長・連合会副会長の衛藤氏、委員のうち高野氏は現・北海道会長、足立氏は現・島根県会長)
 連合会の選考委員会で協議され、連合会副会長の中村豪氏から電話連絡が自宅にありました。東京で青年委員会最後の会議を終えて青年委員長選考から年齢等で外れたと思って帰熊したあとだったので耳を疑いました。
しかし、中村氏の「青年委員長は大役で大変だろうけど、生涯を通してきっとやって良かったと思う時もあるから受けて欲しい」の一言で決断しました。東北弁で聞きづらかったのですが、そういう意味のことをおっしゃいました。
 ただ、名誉職で終わりたくなかったので、これまでの建築士会活動で感じたことを実行に移すことにしました。

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【全国大会後の新聞記事の一部】

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【北海道旭川支部での講演後のインタビュー記事】

 青年委員長の仕事は大きく分けて二つありました。全国青年委員長(部会長)会議と青年建築士の集いの開催です。
 全国青年委員長会議では、「応急危険度判定士制度の速やかな実施」を緊急動議で提案し決議しました。また、各県の建築士会活動を後押しする「地域文化貢献賞」を創設して表彰することにもしました。
 一番印象に残っているのは、平成6年の愛媛大会です。全国研究集会を第1回青年建築士の集いと改称した大会。ここでは九州で実践した分散会方式を松山文化会館の29の楽屋を使って再現しました。テーマはシナリオのない「無題」、グループ分けは自由。見ず知らずの「建築士」が自己紹介から始まって、いま考えていることを忌憚なく話し合うというやり方です。参加者はみんな建築士。進行は信頼して任せました。
 このいわゆる「タコ部屋談義」は、常に連合会から与えられたテーマで話し合っていた人たちには戸惑いもありました(賛成60%)が、事後アンケートによると遠方から参加しても一言も発言せず、誰とも名刺を交わさないよりは、新しい「仲間」との出会いや自分が出した議題で話し合いができたことはとても有意義だった(賛成80%)ようです。
 ここでも、会費会員(会費だけ支払って会誌「建築士」を読む活動不参加の一般会員)に対し、何を持って還元できるかが、個人的には課題でした。これは、建築士会員になって以来の永遠のテーマです。
 この後の青森大会までが私の任期でした。分散会方式は継承しましたが、阪神・淡路大震災のあとだったので、防災シンポジウムを実施し、前年度決議し連合会理事会で承認された応急危険度判定士制度の加速度的な促進にまい進しました。

 
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【熊本県人吉市矢岳町を訪ねて演奏してくださった「パパイヤカンパニー」の記事】

6、交流から学ぶ
 さて私と建築士会の関係は、大役を降りても続きました。個人で発刊していた「おげんきですか」という小冊子を平成元年の1月から全国大会などで知り合った人たちに無料で配布していました。B5判8ページのミニコミ誌は「自分と話して気があった人」に送付していました。平成7年7月の65号まで続きました。
 中身は、開発した国産材杉合板の途中経過やくまもとアートポリスへの考え(まちづくり実行委員長)、旅先で思ったことや、環境問題への取り組みなどでした。約3,200部の郵送費や印刷・編集にかかわる費用などがかさみ、途中でインターネットに変えましたが、全国の建築士やそれ以外の友人・知人の感想が届くのが楽しみでした。

7、中部支部との関係
 沖縄に来てさっそく西山氏の勧誘で中部支部に在籍しています。平成4年嘉手納町で講演して以来約23年経ちました。その間、平成11年から空き店舗事業の一環で開店した一芸居酒屋「紫微鑾駕」でも大変お世話になりました。また、熊本県人吉市矢岳町で始めた「林間学校」も現在、沖縄県北中城村に転居と並行して継続し、この春で第26回目を迎えます。
 平成11年には、携帯電話も通じない山奥の矢岳町に古謝氏や現・嘉手納町長である當山氏など7名のパパイヤカンパニーの皆様が来て下さり、三線を片手に「矢岳の森の音楽会」で沖縄音楽を奏でていただきました。沖縄出身の妻は故郷を思い出し、心打たれて涙しました。ありがとうございました。
住居が北中城村、勤め先も管轄外なのにいまだに中部支部に在籍するのは、このようにさまざまな歴史とこころの付き合いがあるからです。
 また、国産材使用合板の開発普及、無数のミニ地下ダム構想、矢岳の家(旧国鉄矢岳駅駅長官舎と井戸)の登録文化財への登録、シンポジウム「死角からの提案」(沖縄県建築士会・21世紀社会特別委員会委員長)、無災害地域と災害地域の技術者の相互支援体制(AEN:アジアエンジニアネットワークシステム・沖縄県建築士会ネットワーク強化委員長)などの建築士としての活動に加え、林間学校や講演などの環境教育を手段とした人格形成活動も同時に行ってきました。

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【沖縄県建築士会での活動。無災害地域と災害地域の相互技術支援システム(AEN:アジアエンジニアネットワークシステム)構想で台湾建築師公会や在沖米軍基地との交渉を行いました。】

8、これから・・・
 現在、仕事は土木コンサルタント業務(技術士:建設部門・総合技術監理部門)と建築の設計監理業務(建築士)を半々で行っています。
 建築では伝統木造住宅に隠された日本の技術秘法や日本的な暮らしぶりを現代社会に生かしたいと思っています。日本の気候は穏やかな中にも変化があります。日本人はそれを全部受け入れて俳句や短歌、華道や茶道などの文化、合気道や居合道などの武道として極めてきました。建築の世界でもかつては自然を敵対視することなく、暑さ寒さをほどほど感じる暮らしを営んでいました。近年の事件・事故を顧みますと、自然を人間の科学力でコントロールしようとする傾向を強く感じます。
 身勝手な事件が発生しないためにも、科学力を少し抑制し、エネルギーもなるべく使わないつつましやかな日本人に、そろそろ帰るべきではないかと思っています。

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【最近の仕事:「龍が昇る家」(北中城村字仲順(ちゅんじゅん)】

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【鏝絵(こてえ)の採用】

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【日本人の心と技術がいっぱい入った伝統構法を残すことを主眼にした設計を今日も行っています。(那覇市具志)】

 最後になりましたが、建築士の資格は技術のひとつです。使い方次第では、100年後、巨大な産廃になったり、文化財になったりします。資格にあぐらをかくことなく、謙虚に社会に対して何ができるか、今一度、考え直す時期が来ているかもしれません。
 また、建築士会は個人の集まりです。資格に上も下もありません。そして、全国に仲間がたくさんいます。私が連合会の青年委員長当時の澤田会長がいいました。「全国大会で記者会見しても専門紙だけ来る。いかに一般紙の記者が参加してくれるか、が建築士会の課題。もっと社会的な活動をしないとね・・・。」
 中部支部会員のみなさま。どうぞ今後は、資質向上や自己満足の業務だけに留まらず、健全な社会実現のための運動体として活躍されること切に希望して、25周年の節目の寄稿とさせていただきます。 

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【「きたなか林間学校」も「紫微鸞駕」と同じ25回目の記録書を発刊しました。気持ちの続く限り、継続したいと存じます。】
posted by 塾長 at 16:16| 建築