昨日は長男・朴然が、宜野湾青年会議所の企画したフォトコンテストで最優秀賞になったと宜野湾JCからメールにて連絡がありました。このところ、朴然は運がついているような気がします。
妹で1歳の「こだまこ」が、タチガーの洗たく場にあるお地蔵さんに向かって手を合わせている一コマが受賞しました。
【宜野湾市役所のロビーに掲示されていました。】
昨日はこの他、その朴然が作成した自由研究を東京の才コン(全国児童才能開発コンテスト)事務局へ送る日でもありました。県で最優秀になっても全国ではどう評価されるかわかりませんが、12月末の結果を待つのみです。(中3の長女は別のコンテスト(読書感想文)で県代表)
【東京に送る前に撮った自由研究のパネル bP】
【パネル bQ】
その帰り、日の丸の旗を買いに行きました。沖縄に居を移してすぐに自宅ベランダに日の丸の旗を揚げていますが、少し破損してきたことと、11月25日は45年前、三島由紀夫氏が割腹自決した日でもあるからです。
【新しくした日の丸の旗。45年前の今日を記念して、揚げました。】
当時私は19歳。憂国の士である三島由紀夫氏が割腹自決というのに、大ショックを受けました。「後に残り在る者を信ず」という遺書をまともに受けて、私は次の日(26日)、会社に休みをいただき、日の丸の旗と3メートルの折りたたみ竿をもってひとり、急行「やたけ」に乗り、宮崎へ向かいました。
【玄関屋根には下り龍が鎮座していますが、その向こう側に日の丸が見えます。】
宮崎神宮にお参りした後、平和台公園に移動し、「八紘一宇」の巨大石柱を前に日の丸の旗を掲げ、「教育勅語」を読み上げました。
45年も前の話ですが、そのあと少し落ち着いたのを思い出します。
ただ、三島氏が言い遺した「後に残り在る者を信ず」というのは、自分たちの世代なのだと思ったのは間違いありません。
三島氏が予言したように、日本は「無機質で、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済大国・・・」になってしまいました。
【海外で見ても、自宅で見ても、ホッとするのが日の丸。日本人に生まれてきて良かったといつも思います。】
虐待やいじめ、破廉恥な事件が後を絶たないことや、対立の続く沖縄の基地問題などを、さまざまな角度からを解決策を巡らせていましたが、やっと根本的な理由にたどり着いた気がします。
【日の丸を買ったあと、偶然にもチャンネル桜のボギーてどこんさん(左)と会いました。初対面です。お隣(右)は北谷町の町田クリニックの町田院長です。これも何かの縁でしょう。】
戦後、東京裁判の結果やGHQの占領政策の影響を受けた多くの日本人が、いまだにその呪縛から抜け出せないからだと思います。そして、「日本人の心」を忘れてしまったこと。
白人列強の侵略から自衛のためにあえて戦った大東亜戦争や、その他の紛争の歴史を、戦後チャンと教育しなかった(できなかった)からでしょう。
例えば、国技の大相撲だと「勝てばいい」、食だと「おいしいならいい」、住まいだと「住めればいい」・・・。そこには、他の国では当たり前でも、「日本の文化」や「日本人」の感覚からすると受け入れにくいことが多々あります。それは、日本人のDNAが残っている証拠です。
日本は厳しい季節もありますが、穏やかな季節もあります。日本人はその自然と共生し、多くの文化を生み出しました。俳句、短歌をはじめ、「道」の付く合気道や武士道、華道、茶道、居合道など、多くの極めた道があります。根底にあるのは、日本人の自然観です。自然と闘わず、調和・共生する自然観です。
【那覇市役所のロビーで歩けない万然(4歳)のバギー(車いす)を押す第八子の「こだまこ」(1歳)。】
日本人が本来の日本人の誇りを取り戻せば、争いごとや凶悪な事件は減り、穏やかで柔和な日本社会が到来すると確信します。
【家族の虐待や監禁など悲しくてつらい事件が毎日のように報道されますが、時には仲のいい兄弟姉妹の報道も必要かと思う時もあります。これは先日、設計した住宅の落成式で歌を披露する我が家の子どもたちです。】