2016年04月11日

木造文化フォーラムのご案内と「紫微鸞駕」寄稿

第7回木造文化フォーラムを来る4月23日(土)開催することにしました。
ここに、その案内チラシを掲載します。
新聞にも案内が載るかと思いますが、事前にアップいたします。

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 また、沖縄県建築士会中部支部の総会時発行される「紫微鸞駕」への掲載予定の原稿もできましたので、先にアップいたします。(HP用に一部写真を追加しています)

現代建築考 「空っぽな建築」 
          社会的企業じねん(自然)組一級建築士事務所 後藤 道雄

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(追加写真)

【高校入学を記念して子どもたちが作った自転車小屋。ちゃんとコミセンで締めます。】
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【同様にみんなで作ったベランダ。ちなみに、床は足場用道板。(可動式です)】
【伝統建築で育つ子どもたちは家から多くを学びます。】
【差し金や木の使い方、建て方まですべてが勉強。】

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【渡り廊下の屋根も子どもたちが作りました。(追加)】

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【崖の上の礎石保護のために犬走のコンクリート打設。古いミキサーを使って練ります。(追加)】

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【左官さん顔負けの小手さばき。(追加)】

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【完成。これでがけ崩れを多少防止できます。バケツリレーでコンクリートを運んだ子どもたちも達成感100%。(追加)】

【はじめに】
 建築の設計・施工に携わる仕事を始めて46年になります。これまで自分なりの建築哲学をもって取り組んできました。しかし最近、戦後の建築は立派に見えますが、中身は空っぽなのではないかと思うようになりました。以下は、その分析です。

 建築は目的によって種類や構造もさまざまです。また公共もあれば民間もあります。建築士はそれぞれ得意分野を生かして社会の要求や個人の要望に沿って建築を生み出し、設計分野ではデザイン性や機能、施工分野では新技術や工期短縮などに独自の考えを仕事に生かしているようです。
 しかしここにきて思うことがあります。それは建築、とりわけ誰にも共通な住まいについて取り上げてみます。住まいも持ち家や貸家、RC造や木造など価値観や家庭事情によって千差万別です。しかし、どの家どのアパートでも建築士の誰かが設計していることだけは事実です。設計理念は何なのでしょう。
【自然との共生・調和 人間中心から地球中心へ】
 共通するのは建築当時の建築士がその当時の合理性、快適性を追求していることです。近年は景観や緑化などに配慮した家が増えましたが、戦後一貫して変わらないのは「人間中心主義」です。
 残念ながら建築行為は大小にかかわらず、自然を破壊する開発行為です。基礎工事が始まった時点で、地下・地上の生態系が破壊されます。ミミズやモグラ、バッタやチョウなど野生動植物の生存権が脅かされます。ただ、人間も自然界の動物ですから生きる権利はあるので、自然保護だけに偏らず、人間以外の生きものとの共存を図ればよいものと考えています。
 つまり、必要最小限の開発に努め、野生動植物の生存権に配慮することです。トンボやチョウは好きだけど、蚊やハエは嫌だという人がいます。しかし、蚊がいないとトンボやコウモリは困ります。一晩に多くの蚊をたべるからです。また、ハエがいなければ地球上は死体だらけです。ハエは天然の分解者です。

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【我が家。4つの棟でひとつの住処(すみか)。地形に合わせて礎石を配し柱の長さをすべて変えて建てました。屋根も周囲の樹高に合わせました。木と石と土と紙を日本の伝統技術でつなぎました。自然との共生がテーマで別名「ぬちゆるやー」(命が寄ってくる家)。今夜もカエルの合唱で眠れぬ幸せな夜を過ごしています。】

 我が家を少しだけ紹介します。木造平屋ですが、基礎はすべて琉球石灰岩の礎石です。山の斜面に建てましたが、地形は元のままです。したがって土壌生態系はほぼ以前のままです。
樹木も建物にかかる以外はすべて残しました。先住者として一部、ベランダの中にも残っています。地上の生態系を最小限に抑えたからです。
 なぜそうしたかというと、「人間中心」ではなく「地球中心」の考えからです。大地震や大津波を見てわかるように、自然力には人間の力は遠く及びません。だったら、地球のふところにいだかれて、あるがまま、つつましく生きようと思ったからです。

【日本人の自然観】
もともと日本には上記のような自然観がありました。変化があったのは明治以降の西洋の自然観の導入です。神に似せた人間が一番偉く、自然は人に服従、科学文明によって自然は征服できるという宗教観が底流にあったと思います。
 しかしながら、その後の自然大災害をみれば、人間のおごりにそろそろ気づいてほしいものです。そう考えると、国土強靭化政策で高台移転や巨大な防潮堤は人間の浅はかな行為として映ってしまいます。

 漁村は海の間近がベストだし、温泉は火山近くにあるのが一般的です。つまり、自然の脅威(現象)と共存してきたのが日本人の自然観です。
 自然の大規模な変化あれば、逃げる。あるいは小さな前兆に気づく感性を常に持ち合わせるのが、災害を最小に抑えることのできるコツだと承知しています。

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【上:2世帯住宅(那覇市)と下:龍が昇る家(北中城村)。私は伝統的木造住宅しか設計しません。なぜなら、世界最高水準の伝統技術と日本文化を継承できるからです。】

【建築生態系の在り方】
 我が家から学ぶことはたくさんあります。なぜなら、単に住処は寝て食べて排することだけではないからです。
 建築後9年経っても呼吸する木の家は生きています。呼吸しないコンクリートやアルミサッシ、ビニールクロスなど一切使っていないので、常に生きものと接触している感じです。時には子どもにある時は母のように、またある時には恋人のように感じます。相手が生きものだと、子育てと一緒でなにかとわずらわしさが付きまといます。
 維持管理の不要な、いわゆるメンテナンスフリーの材料を多用した家は、生産・消費・廃棄エネルギーが大きく、なによりも自然の摂理に反しています。
 我が家の建築素材は木をはじめ草や土、石などの天然素材がほとんどで、放っておけば自然に還るものばかりです。近年の住宅は多種少量ですが、我が家は少種多量です。
 森のように生産・消費・分解さらに生産、を繰り返す循環型の地域は閉鎖型の自然生態系といわれ環境負荷が小さく、安定的で永続的と言えます。
 逆に川や都市は外部からの栄養で成り立つので開放型生態系(オープンシステム)です。開放型は入り口、例えば川だと上部にダムを作る、都市だと輸入、移入を止めると生態系は破壊します。閉鎖型に比べ不安定でいつ壊れるか心配です。
 破壊行為である建築がせめて自然生態系のように地域内、せめて国内の自然素材で作り、運用後は地域の自然に戻すという「建築生態系」がクローズドであれば、環境負荷は少なくて済みます。その生態系が全体の自然生態系の中で生かされるのが自然の摂理に叶っていると考えます。

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【(上)本来、日本建築は柱で持たせる。柱を足固めでつなぎます。(下)木の癖を生かした小屋組(ハネギの施工)。】

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【隅梁の納め方(追加)】

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【(上)玄関壁にこて絵を製作。下は子どもたちにさまざまな鏝(こて)の使い方を説明する左官。(北中城村)】

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【さまざまな鏝(こて)(追加)】

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【こんな小さな鏝も・・・】

【空っぽな建築論】
 さて、前段の考えに沿った上で本題の「空っぽな建築論」に移ります。戦後の建築は資材が乏しく、屋根がトタン葺きのバラック建ての簡素な住宅でした。その後国の高度経済成長とともに、耐火性、耐震性の高い住宅に移行していきます。さらにプライバシーを尊重した個室に気密性や快適性を兼ね備えていきます。これを「人間中心主義」が支えます。
 木造では規格化、工場生産化が進み、徐々に職人やノミやカンナなどの道具が現場から消えていきます。コンクリート造は耐震から免震、制振へと進化しています。ただ、木造と同じように数値化による対応が進む中で、住まい手から自然は遠のき、手入れ知らずのメンテナンスフリーの家が地上を覆いつくすことになっていきます。
 ではなぜ「現代建築は空っぽ」なのか?「空っぽ」には「空しい」意味もあります。例えば今の住宅は快適で便利、安全で清潔かもしれませんが、一方では気密性が良すぎて雨音も聞こえない、個室にカギが掛っていて家族でも容易に入れない、バリアフリーで体力・機能が落ちた、オール電化で停電時お湯も沸かせない・・など新築しても空しい気持ちにおちいる家庭が増えています。
 大金を払って健康・健全な家庭を願って建てたとしても、引っ越し後、引きこもりや家庭内別居、病気がち、ケンカが絶えない、密室化で犯罪の温床になったという事件も多々見受けられます。つまり、家の物質的な品質は上がったとしても、なかは「空っぽ」というわけです。

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【心柱に使う柱を「空師(そらし)」に依頼。「ごめんなさい」と声をかけ伐ります。(宮崎県綾町)】

 原因はなにか?それは住宅に「文化」がなくなったことです。住宅を物理的にだけとらえ、「頑丈なモノ」としか評価しないからでしょう。木造でいえば白アリが食べない木や燃えない木にするために薬液浸けにする蛮行が横行しています。それを支持する住まい手もたくさんいます。建築の中でもせめて住宅くらいは規格化、機械化の圧力から少し離れ、工業化製品の組み合わせではなく、自然素材を使った職人技がいたるところに見受けられるようであってほしいものです。
 そうすると住宅は単なる「モノ」ではなくなります。木を切る「空師」から製材、大工、建具まで木を扱う職人の魂が吹き込まれるとモノは「生きもの」になります。当然いとおしくなるものです。その魂が日本の長い歴史で培われた「建築文化」です。
 日本には木を無駄に使わない、木の性格に沿った使い方をする木割り法や規矩術、尺間法があります。これらを総じて俯瞰するのは日本の自然と人間が共存共生する考え方です。

 建築の世界に限らず、米作りでも百姓は百の技を持たないとなれない、お米を作るには八十八の苦労があるといわれています。機械力・化学力によって自然をコントロールするのではなく、自然に畏(おそ)れを感じつつも、自然を生かして慎ましくコメ作りに専念しました。だから食べる人は自然や百姓さんに感謝し、お米を粗末にしませんでした。住宅も同様で機械力や科学力への依存が高まるほど家への愛情が薄れ、職人技もすたれたように感じます。

【おわりに】
 かつて故三島由紀夫が日本を憂って書いた言葉があります。
「・・・無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜め目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。・・・」と。

 戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が画策した日本弱体化政策にまんまと引っかかった日本。見た目には豊かに見える家庭や住宅も実は空っぽ。見るに忍びない監禁・虐待事件、保険金殺人や覚せい剤事件などは住宅を含めた単なるモノがあふれる社会で日本人の心が喪失した結果に他ならないと思います。

 最近の家々を見渡して果たして世界に誇る日本の建築技術と奥深い文化を感じ取れる手作りの仕口や建具はありますか?ほとんどの木造は西洋式の大壁づくりで、大工や左官の仕事を直接見ることができません。ビニールクロスやサイディングなどの材料で骨組みを隠してしまうので大工も左官も自分のした仕事を見ることができません。昔はカンナのかけ具合や木目の出し方を建て主に誇っていたものです。

 建築基準法をはじめ、品確法や瑕疵担保責任保険などで材料や工法の強度や品質は高まりましたが、これらの組み合わせでできた空間に日本の建築文化は見当たりません。つまり今どきの建築は、箱は丈夫でも中身は「空っぽ」なのです。
 木組みに限らず、ふすまや障子の製作、左官が仕上げる漆喰や聚楽土塗りに至るまで、土や木、紙などを使って作る日本の住宅には奥深い文化と技術が隠されています。
 それを紐解くと日本人の知恵や自然観が見えてきます。それを生かせば家庭から社会まで、また、生まれてきてから亡くなるまで、家の部分や全体から得る人生訓は計り知れません。
 住宅建築の世界はお互いの訴訟逃れのため明文化された品確法や瑕疵担保責任保険に依存していますが、もっと大切なことは、それ以前に重要なのは作り手、住まい手の信頼と価値観の共通認識でしょう。
 汚い言葉で綴る「保育園落ちた!」の匿名ブログを利用して、待機児童問題を国に迫るマスコミや低俗な政党を見ると、情けなくなります。子どもは自分たちの責任で育てるのが当然。私たち夫婦は8人の子育て(やがて9人)をしていますが、保育園に通わせていません。建築だけではなく、依存型の日本人の心も空っぽなのかもしれません。

 最後になりますが、建築士は建て主の要求に応じるだけではなく、独自の価値観と確固たる信念を建て主に理解してもらうことです。特にこれからの建築を担う若い建築士の方々には、50歳になるまでに百年耐え得る崇高な理念を持ち合わせることを期待いたします。
 「有機的で、中身が濃く、独創性があって、お互いに感謝し、メンテナンスに汗をかく住宅(住処)」が増えることを、切に願っております。(下写真:那覇市に建築中の住宅の図板と海老虹梁の原寸)
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【こちらは大工さんお道具の一部。目的に合わせて各種のノミを使いこなします。日本の建築文化そのもの。(追加)】写真説明で(追加)とあるのは、「紫微鸞駕」の原稿には未掲載。理解を深めるために、HPでは掲載しました。
posted by 塾長 at 09:41| 教育・子育て