2011年05月02日

心のバトンタッチ!

 実は、4月24日(日)午後2時30分、母親が亡くなりました。95歳でした。当日、日赤から転院していた病院で急変したと妹から電話が入り、問い合わせの電話を病院に掛け直した時、おふくろは逝ってしまいました。
 午前中まで冗談が出るほど元気だったそうですが、午後のリハビリに移動してからすぐ具合が悪いと言って、そのまま息を引き取ったようです。

 沖縄〜熊本便は一日1便しかなく間に合わなかったため、その日の福岡便を急きょ取って家族全員で安置されている葬儀社に向かいました。着いたのは夜の11時ころ。それでも、家族全員起きていて、畳の上に寝ているおふくろに寄り添って声を掛けました。

 悲報を聞いた時は日曜日の午後だったので家族がいました。一斉に泣き崩れましたが、母と会った時は冷静でした。奇跡を起こした日赤でのイメージが強く、私は「おふくろ、みんなでまた来たよ、早よ、起きらんねー」と言いました。2ヵ月半前も同じように着いた時は意識不明で寝ていたからです。

 ただ、違っていたのは、顔も手も冷たかったことです。ここで、死んでしまったことを実感しました。小学校2年生の時亡くなった父親と、その2倍近く生きたおふくろの二人を失くしたので、これで親は誰もこの世にいなくなりました。

 命には限りがあります。しかし、別れはつらいものです。この週は事前に計画していた竣工検査の実施、フォーラムの開催、論文の提出、宿泊している大工さんの帰熊(送りや片付け)などが目白押しでニッチもサッチもいかない状況でした。
 おふくろに事情を語りかけ、了解をとりました。おふくろも声は出しませんでしたが看護婦を74歳まで務めあげるほど仕事にこだわってきた人。「心配せんでよか、仕事が大事、戻って仕事ばしなさい。」と言っているようでした。着いた晩は私たち家族8人がおふくろの傍らで休むことになりました。子どもたちは午前2時まで起きていて、千羽ツルを折り、書いた手紙などを母親の周りに置いてくれました。おふくろの周りが、少し明るくなりました。連載していた「新・木造考」の最終回に木の力が危篤のおふくろを助けたことを書きましたが、結局、おふくろは見ていません。その場で、新聞のコピーを顔の前に置き、みんな交代で読みました。

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【おばあちゃんに、2ヵ月半前の危篤の時、奇跡で元気になった時の様子を書いた記事を読んでいる子どもたち。ひつぎに折った千羽鶴と一緒に入れた】
 
 線香の火を絶やすことなく、朝を迎えました。帰りの出発まで時間が少しだけあったので、父親が入っているお墓の掃除と、最期を看取ってくれた病院に挨拶に行きました。先生にお礼の言葉を言って頭を下げましたが、この時ばかりは、熱いものがこみ上げてきました。 

 初七日を経て、少し喪が明けてきました。お陰で環境検査も合格、フォーラムの無事終了し、論文も書き終えてフォーラムの資料にしました。明日からいよいよ林間学校も始まります。お通夜や葬式には出席できませんでしたが、おふくろは天国からきっと喜んでくれていると信じています。

 これまでも林間学校では「命の循環」をテーマで実施したことがあります。チョッと反省をしています。おふくろが亡くなった日、メンドリが一羽死にました。しかし、沖縄に帰ってきた後、昨日までにヒヨコが11匹生まれました。しかし、これを単純に命の循環とは言いたくはありません。循環などと言うのは物理的なとらえ方です。
おふくろは私や周囲に残していったものがたくさんあります。やっぱり、「心のバトンタッチ」。気持ちや考え方を次世代につなぐことが大切だと思います。

ちなみにおふくろの考え方のひとつは「慎まししく生きること」。4.5帖に火鉢と仏壇を置いた質素な暮らしでした。「4.5帖が一番よか!手を伸ばせば、なんでん届く!」 
方丈記を地で行く生き方でした。思った通りにならないとイライラする人間が日本人の大半を占めるようになりました。もっとなるがまま(わがままではありませんぞ!)に生きれば、ストレスもなくなるのに・・と木造建築に携わりながら思います。木造はその点、とてもいい教材です。
「さらば、おふくろ!」またあの世で会おうよ!(合掌)

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【フォーラムの様子。隣はゲストの轄糟嘯フ當間あずささん。環境共生住宅の調査概要を発表していただいた。参加者は約20名。沖縄市諸見里の伝統住宅新築現場にて】

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【フォーラムの最後は、「住まいは、哲学(人生観)の表れ。さて、あなたは未来に何を残せますか?粗大ゴミ?資源?それとも生き方?家づくりは国づくり。伝統構法のすまいと暮らしで社会にも貢献しましょう!」。参加した方々にどのくらい理解して頂いたかな?】

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【講演のあとの見学。石油化学製品の建材使用はゼロ。しかしハード面だけではなく、住まいから何を学ぶか?自然との共生は、自分が思った通りにならないことがわかるだけでいい。利便性からの脱皮と伝統構法はつながっている】
posted by 塾長 at 09:09| 教育・子育て

2011年04月13日

逃げるが勝ち!

 ハイサイ!最近、貧乏ヒマなしでブログを入れる暇さえありませんでした。これからも、仕事以外では「春の林間学校」や「住環境フォーラム&木造建築学習会」の予定があります。

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        【4月29日、学習会&フォーラム(参加費無料)の会場となる沖縄市の木造住宅現場。足場も取れて、全貌が見えてきた】

 また、内閣府沖縄総合事務局経由で東京の社団法人からの原稿依頼もあって充実した日々(?)を過ごしています。気になるのは、一向に納まらない東日本の地震。これは余震ではないのではないかと思っています。

 東日本の広域に震源をもつ地震や、大津波の災害の様子は、映像として身近に感じることができるようになりました。それを見るたびに、自然の強大な力には圧倒されます。
 そして感じことは、戦後復興の中で日本人が自然の力を軽んじてきたのではないかということです。また、自然と対決する西洋的な考えが日本国中にまん延しているのを痛切に感じています。

 それを如実に表すのが報道でよく目にする「自然の犠牲」や「犠牲者」という表現です。犠牲というのは本来、事件や事故の被害に遭った人のことです。今回のような自然災害で亡くなった方や怪我をした方、家を流された方々などは自然災害で被害を被った方であって、「自然の犠牲」だとは思っていません。

 自然には悪意はありません。地震も津波も、あるいは台風も豪雨も自然のひとつです。今度の地震や大津波に遭った地域は運が悪かった、と思います。東日本以外の地域や地方でも、同じような大きな自然力を受ける可能性は十分考えられます。いつでも、どこでも条件は一緒です。
 そう思うと、被災地への支援・復興と同時に、どのようにして自然と付き合っていけばいいのかと言うことも冷静に考えなければなりません。

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          【馬糞を堆肥小屋に運ぶ第5子の「さわみこ」(3歳)と「こはづき」(2歳)。命の循環をこの頃から体得する】

 これはこれからの国づくりにも影響します。大津波の映像のなかで、車で家に何かを取りに行った中年の奥さんに「逃げてー、早く逃げてー」と高台に避難した人たちの悲痛な叫び声を掛ける映像を見ました。結局、この主婦は車ごと大波にのまれていきました。

 「逃げる」ことは大事なことです。戦後は何にでも立ち向かうことが善、という教育を受けました。しかし、私は、こと自然に関しては「逃げる」「避ける」「よける」ことは決して恥じるべきことではないと思っています。自然に対して人間の力は非力です。これは日本固有の合気道の精神や、柔構造の木造建築と重なるところです。

 大地震が来たら真っ先に高台に逃げるが勝ちです。もともと、大津波が来るところには住まないことです。住まざるを得ない時は、逃げるか、水を逆手にとって浮かぶことです。
 菅総理が「これからは山を削って高台にエコタウンを作る」といったようですが、海を埋めたり、山を削るような政策は、所詮、自然破壊のまちづくりです。そんなところ津波は来ないかもしれませんが、山津波(がけくずれ)が来ます。一国の総理がこの程度なので、まともな国づくりができるわけがありません。
 民主党も野党に頼まず、優秀な人材がたくさんいる党内の小沢派と挙党一致したらいいのに・・と思います。もったいない話です。

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         【裏の畑を耕す二人。沖縄は最近、暖かい日が続く。自然への畏敬の念の醸成は幼少のころの暮らしぶりで培われると思っている】

 快適便利を追い求めてきた戦後社会は、まだ続いています。自然を排除し、人間を中心とした社会では宗教に代わって科学が人々の支えになっています。しかし、科学は原発事故のように過信すると取り返しのつかない事故を生みます。

 科学に代わる人々の哲学はいまこそ「慎ましい暮らし」であると考えます。原発を必要としない質素な暮らしが、自然との共生にも結び付きます。

 自然は加害者ではありません。これを機にまた、自然に対抗するような愚策を取るのではなく、謙虚に自然の力を認め、日本人らしく自然と共生する道を探すことです。
 だって、日本人はこれまでずっと自然を利用・活用し、破壊もして来たではないですか。人間にとって都合の良い、「いいとこ取り」では済ませないことを、この大震災・大津波は教えているように感じています。自然に感謝こそすれ、敵対心を抱き、自然に対抗するような政策・考え方は間違いだとこの時期に及んでも私は思っています。

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【わが家は元々8人家族。これに大工さんや左官さんが加わり、現在人間だけで12人家族。18日から建具職人さんも加わるのでにぎやかになる。写真は左官さんの歓迎会で歌を披露する子どもたちの様子】
posted by 塾長 at 23:43| 教育・子育て

2011年03月18日

いざ!さらば!

 今日の午前中は小学校の卒業式に行ってきました。わが家に卒業生はいませんが、学校評議員を仰せつかっている関係上、来賓として招かれたので、随分久しぶりに「卒業式」に出かけました。

 昔とは変わったと聞き及んでいましたが、残念ながら、その通りでした。まず、国歌斉唱。沖縄だからかもしれませんが、式の初めの国歌斉唱は、式次第にあっても「斉唱」する人は誰もいません。
 起立しますが、流れるのはテープ。子どもたちもただ、聞いているだけです。小声でも歌ったのは私だけ。前の席に並ぶ村議会議員の一人は、国歌斉唱に反発したのか、着席しました。国歌斉唱が戦争と結びつくと考えているのでしょうか?

 沖縄で生まれ育った家内に聞くと「君が代」は歌ったことがないので、歌詞は知らないと言います。私たちは小中高の始業式、卒業式には必ず歌っていたので、みんな覚えています。特に熊本工業高校には音楽という学科はありませんでしたが、校歌と国家斉唱の指導はありました。『「♪さざれーいしのー♪」のところは「さざれ」で切るな、「さざれ石の」は続けて歌いなさい!」』と厳しく言われたものです。

 歌と言えば、卒業生が歌う「仰げば尊し」もなければ、在校生が送る「蛍の光」もありません。今日歌ったのは卒業生が「生きてこそ」、「あなたにありがとう」、「旅立ちの日」。5年生が「Believe」でした。
 ともに、友だち同士や親子のきずなを歌にしたものです。学校の卒業式はやはり、お世話になった先生に対しお礼を込めて歌うべきなのではないかと思いました。(親は、すぐまた家で会えるから・・・)

 送辞も答辞もありませんでした。全員で在校生や卒業生に話しかけます。歌もそうですが、自分の言葉でないので、感じるものがあまりありませんでした。
 全員参加もいいですが、生徒代表が訴える方が迫力があるのではないかと思いました。

 はなむけの言葉も多々ありましたが、感動を呼ぶ事例を含んだ言葉はありませんでした。また、式全体がどこか、学芸会の雰囲気が漂っていて、これまでの練習を発表しているような感じでした。

 私だったら「地震や津波で被災されたところでは、卒業式もできない。君たちはまだ恵まれている。被災された子どもたちの分まで頑張って欲しい!」などと言ったことでしょう。
 妙に「さようなら」が多く、さみしさを生みだすような仕掛けが目立ちました。卒業式は「お祝い」です。人生のひとつの通過点です。節目を迎えられた喜びをともに分かち合う方がいいのではないのでしょうか。来賓が「おめでとう!」といえば、そのたびに深くお辞儀をして「ありがとうございます!」と全員で応える風景に違和感がありました。
 もっと素直に、中学生になる喜びを出した方が良かったと思います。

 一方で別な村議会議員は、式の間じゅう、クチャクチャとチューインガムをかんでいました。軽率な行動です。尊敬される大人には程遠い行為と思いました。

 「卒業」。人生の節目。人生は、出会いと別れの繰り返しです。「別れ」を楽しむこと大切だと思って帰ってきました。

 やっぱり私は「・・・♪いざーさらーばー♪」です。「さらば小学生時代、新しい出会いが待ってるよ!」と言いたいところです!! 
posted by 塾長 at 14:35| 教育・子育て

2011年02月07日

「入ってもいいでしょうか?」

 近年は、自然に逆らわず、慎ましく生きていくことが、日本ばかりではなく世界の安定や正常な自然循環・共生につながると思って暮らしています。

 憂鬱なヒマワリ祭りが昨日終わってホッとしました。人間から摂取されたヒマワリの種は蒔く人を選べません。自分たちの利益のため、あるいは快楽のために秋に蒔かれた種は、寒い冬に無理やり花を咲かせますが、いかに沖縄が暖かいからとはいえ、自然の正常な循環や環境倫理に照らし合わせると、人間の無謀としか言いようがありません。今年も連作なので、土壌の栄養もなく、寒いので昨年よりもっとひどい状態です。これを見て、人間だけが笑っていいものでしょうか?

 ヒマワリ畑で結婚式まで挙げる企画まで打ち出した実行委員会。なんのためらいもなく結婚式を挙げたカップルもいましたが、そのなかで進行役の女性のアナウンスの声です。
最終日まで、とうとう花が咲かなかった多くのヒマワリたちに投げかけられていたのは「今年は寒かったので、あまり咲きませんでした!」

 わが家にまで聞こえてくるスピーカーの声に、なんと都合のいいことを言っているのかと、唖然としました。・・・もともとヒマワリは真夏に咲く花なのに・・・

 このヒマワリ畑を見に来る客が、ついでに我が家に来る時があります。予告もなしに、突然、敷地の中に入ってきます。せめて、「こんにちわ」のあいさつや、「入ってもいいですか」くらいの確認ぐらいしてほしいものです。

 沖縄は特に図々しい人間が多いように感じます。平気で他人の家に車で入ってきて「ここは、喫茶店?蕎麦屋?あっ、違うの。」と言って帰り道、車が脇の溝に落ちた人がいます。
 ひっぱりあげてやっても、あいさつひとつなく、さっさと帰って行きます。
  こんな親の下で育つ子どもも心配です。我が家に遊びに来た親子のなかには、はじめてきたにもかかわらず、そばにあったおもちゃを勝手に使って遊び始めるたぐいもいます。
 親だけではなく、我が家の子どもたちもびっくり。結局、このような親子はわが家から御法度になりました。日本人の謙虚さ、慎ましさはどこへいったのでしょう?


 最近棟上げした沖縄市の住宅。ここにも多くの方々が見学に訪れます。時々現場に行く私がいる時でも2〜3組会う時があります。常時、現場で仕事をされている大工さんによれば、車越しなら毎日10組以上、現場に入ってくる人も数組はあるそうです。

 問題なのは、黙って入ってくる人たち。そして勝手に写真をとる人。現場には「関係者以外立ち入り禁止」の看板を立てています。それでも入るので、高さ70センチのバリケードで囲いました。それでも勝手に入ってきます。

 
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                       【立ち入り禁止の看板があっても平気。】

 個人住宅に勝手に上がり込むのは、不法侵入です。タバコの火を落とされたり、泥靴で上がられたりしたら大変です。また、間取りを知ることはプライバシーの侵害にもなります。今日、また新たに看板をつけたいと思っていますが、この図々しさは何だろうと思います。

 逆に、丁寧に私に事前に電話を掛けてきて名を名乗り、勤め先や連絡先、見学したい目的などを申し出て、承諾してもらえないかとお願をされる丁重な方もいます。
 その方は、大工さん経由で名刺もいただきました。また話によると、玄関で靴を脱ぎ、靴下で現場を見られ、写真撮影の許可も大工さんに取ったそうです。

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【美しい姿、沖縄には珍しい木造、伝統的な木造技術なので、見学者が絶えないのは無理もないが、最低限のマナーは守って欲しい。逆だったらどう感じるのかな?】

 昨日も家族で、現場に散らかった木切れの片付けに出かけました。軽トラックを借り、半日がかりでひらい集めました。子どもは現場が大好きらしく、私は現場が片付くので気持ちがいいと言う、お互いいい関係にあります。
 そこで聞こえてきたのが、現場に入る前の子どもの声。日曜日なので誰もいない現場ですが、その現場に向かって長女、次女が「おじゃましまーす!」といって入りました。

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【現場風景:伝統構法の一つ、貫入れ。折置き組を表す小屋梁の渡りあごが並ぶ壁面】

 また、大工さんから聞いた話ですが、建て主の方が週末、現場を見に来られた時には「入ってもいいですか?」と聞かれたそうです。これらが日本人の謙虚さではないかと思います。
 
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                                     【中庭1】

 建て主が遠慮しながら入る現場に、アカの他人は勝手に入るという異常な日本。いつからそうなったんでしょう?
 身勝手な利己主義から、利他主義に移行する道徳教育を、林間学校でも力を入れたいと思っています。


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                                       【中庭2】


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                                【片づけをする長女・次女】

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【1昨年作ったメダカ池に、昨年生まれたアヒルのの雌雄が初めて泳ぎに来た。無理やりではなく自分たちで見つけて入った。メダカが食べられてしまうかもしれないが・・・】
posted by 塾長 at 06:44| 教育・子育て

2010年12月28日

速報、パニック続きの林間学校が終了!

 昨日、第18回目の林間学校が終了しました。記録書ができるまで時間がかかるので、先に活動内容を速報でお知らせします。

 今回は風邪や部活などで急にキャンセルが相次ぎ、定員より参加者が減りましたが、その分、中身の濃い活動ができました。また、ハプニングもたくさんありました。ハプニングに強い人間になることも、林間学校の目的ですので、願ったりかなったりの感があります。

 まず、2泊3日の日程で初日、2日目が雨だったこと。夏では経験がありますが、寒風が吹きまく冬の雨の中での林間学校は初めてでした。
しかし、教育的な意義からしても、また、日常の延長を謳う目的からしても、思った通りにならない自然を教えるのはもってこいの土俵ができました。

 
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        【雨なので、竹の名札作りはベランダの中で・・・。キリもみして穴をあける】
 
 人格形成には、生理的には「飢餓」と「寒冷」、精神的には「屈辱」と「挫折」を経験した方が良いとされています。寒くなると暖房、暑くなればクーラーを点ける現代の便利な社会では、人格形成はなかなか難しいものがありますが、飛んで火に入る夏の虫、この冬一番の寒さと風雨に耐えて、子どもたちは洋服を重ね、雨靴、雨合羽で頑張りました。

 しかし、これはわが家では当たり前のこと。家畜・家禽(かきん)の世話には、盆や正月、大雨や台風などには関係ありません。どろんこになっても、命ある生きもののためにえさを与えなければならないことを学んだと思います。

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             【竹を割ったあと、小刀でそぐ。自分で使いやすい箸を、自分で作る】

 寒い夜。男の子はシャワーを浴びることもなく、寝袋に入りました。毎回、静かに就寝しないので難儀していましたが、寒いことや「自立心」を高める意味合いもあってあえて、夜中、子どもたちが眠る学習棟に行きませんでしたが、チャンと眠ってくれたようです。

 また、別なハプニングもありました。家庭用の火災報知機が学習棟に付いていますが、これが電池切れのためか、「チッ、チッ」と1分置きぐらいに鳴ったそうです。子どもたちもそのせいで寝つきが悪かったそうですが、それなら・・・とばかり、次の日、火災報知機を直すことに・・。

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                    【竹ひごとチラシ、糸を使って、正月に遊ぶ凧を作る】
 
 ところが、火災報知機は18畳の学習棟の小屋梁(こやばり)の下にあります。中二階よりも高い位置にある火災報知機。だれがそれを直しにいけるか?
「ハイ!」声が上がりました。恐る恐る中二階から小屋丸太に乗り移り、木の丸太にしがみつきながら移動します。周りから見物する他の子どもたちも固唾(かたず)をのんで見守ります。残念ながら器具は直せませんでしたが、5mの高さの梁の上を歩いた(しがみついて移動した)経験は生涯の思い出となるでしょう。そして、何かの際に、その経験が生きてくると思っています。(小屋の梁に登った子どもはこれまで誰もいません)

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             【林間学校にサル現る!住宅が野性的なので、子どもも野生的になる】

「抱きついていた木はどうだった?」と聞くと、「暖かかった!」と言っていました。

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                           【アダンの葉っぱでできた凧(たこ)】

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                      【オオバギの葉っぱ凧。凧作りの指導は石垣先生】

 二日目の午後から天気が回復したので屋外に移動してかまどを作り、火を焚きましたが、ここでも竹が「パーン!」と大きな音がして割れて、火吹き筒を持った子どもたちは一斉に避難。やけどをする子はいませんでしたが、「竹は注意!」と肝に銘じたはずです。

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                               【竹の割れる音を初めて経験】

 外に置いていた薪(たきぎ)は濡れて使えませんでしたが、床下に枯れた薪を使って火を熾(おこ)しました。備蓄の大切さも実感したと思います。初日と二日目の昼食までの準備は、学習棟(木造)のベランダでしましたが、これも初めての経験でした。

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【洗たくの合間に天然水(地下水)を飲む。感想は?「温かくておいしい!」自然の恵みに感謝して、地球を大切にしよう!!】

 ガスを使うので、風で消えないためにベランダに用意された沖縄型の木製シャッターをみんなで取りつけました。これも初。ニワトリのこしらえも予定していましたが、雨で中止。外での活動があまりできない代わり、中で伝統的な木組みの取り外し、組み合わせの競争をしました。日本の伝統的な木組みの見本が3組あったので、それを生かしたプログラムをしました。
どのようにして組まれているのか、終わるころ、複雑な日本の伝統的技術を実感したのではないかと思います。

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                                【日本の伝統技術を実感!】

 この他、さまざまなプログラムを終えて、子どもたちは元気よく帰路につきました。今回は事故やけ がが一切ありませんでした。珍しいことです。活動費に無理は生じますが、やっぱり、参加人数は少ない方がよさそうです。

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    【日課である井戸水での馬洗い。水の温かさと他の生きものへの思いやりを同時に学ぶ】

 ハプニング続きの林間学校でしたが、慌てることもなく、安定で充実した活動ができて良かったと思っています。

 林間学校は、これで今年度は終了です。また、来年、新しい企画で子どもたちを迎えたいと思っています。関係者の方々、ご協力ありがとうございました。

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                  【あるものを生かして棲み家を作る。縄文文化を再現中】

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                              【雨の中を、人馬一体で活動中】

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             【厳しいことばかりでもない。寒い中、焼き芋をほうばることもある】



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【「感性と自立心」。どの程度高まったかは、本人次第。感想文を見る限り、来た時よりも相当変わりました。以上、報告します。】



posted by 塾長 at 13:25| 教育・子育て

2010年12月18日

子どもを家庭に、地域に戻せ!

 取手市で無差別襲撃事件が起きました。東京の秋葉原の事件を思い出します。あの時も、またきっとどこかで起こるのではないかと危惧していましたがその通りの事件が起きてしまいました。
 無差別事件以外でも、バラバラ事件や児童虐待など目に余る悲惨で凶悪な犯罪が毎日のように報道されます。その背景には、自己中心的な日本の社会環境があるように思えてなりません。

 日本は敗戦後、戦争放棄をうたった新憲法のもと自国の防衛を他国に依存して、高度経済成長を成し遂げました。機械任せの快適便利な暮らしは、一方で内在する自身の機能や感性を劣化させました。
 子育ても然り。自分で育てることなく、生まれて間もなく保育園に預け、小学校に入学すると学校に預け、放課後は学童、塾に通わせます。
 保育園は保育補助のための施設です。父親がいなくて(亡くなったり病気して)母親が働きに出らざるを得ない家庭(幼くて父親を亡くした私もそうですが・・)や、どうしても働きたい母親の場合です。

 ところが最近では、母親が家にいても保育園に出している家庭があります。そして政治家や行政は「待機児童ゼロ」を目標にあげます。本末転倒です。家庭に母親がおれる環境では保育園や幼稚園に出さずに、自分で育てるべきです。
 だから、その部分に「子ども手当」を与えるのです。バラマキだと批判されて民主党は委縮していますが、しっかりその目的を説明すべきです。保育園を充実させると保育園を太らせるだけです。

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                  (地域に子どもが戻ると、地域に活力がよみがえる)


 保育園の役員の報酬は思った以上に高く設定されています。施設建設への補助、維持のための補修費、保育士や職員の給料・手当などを含めると月額、乳児一人あたり60万円、幼児40万円もかかっています。
 それを1万3000円の子ども手当で育てるのですから、安いものです。本来は、子ども一人当たり7〜8万円くらい与えてもいいのではないかと思っています。3人で21万円。これだと、仕事に出ずに家庭で子どもを安心して育てられます。
 年収700万円くらいの所得制限をすれば、支出は減ります。財源は消費税をやめて、累進課税に戻すことです。ぜいたく品により多く税金を掛ける累進課税は的を得ていると今も思っています。

 国がすべきことは、子育てに専念したのち、社会復帰するお母さんたちを補償する制度づくりです。家内はもう7年も育児休暇を取り続けています。
 当時郵政省の公務員でしたが、その後、郵政公社、そして現在郵便局会社(民間)になりました。この過渡期に子育てのために休暇をとりました。復帰にはかなり勉強しないとついていけません。

 民間の会社でも同じこと。不安なく社会復帰できるような制度を作れば、働きたい人は働けばいいと思います。

 家庭で子どもたちは個性を身につけます。それぞれの家庭のしつけや教育方針が違うからです。今の幼児教育は幼稚園や保育園の教育方針の影響が強く、みんな同じような子どもに育ってしまいます。
 何よりも、幼児期に母親の愛情が受けられます。最近の事件・事故をみると、幼い時の愛情不足を感じます。

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         (凧揚げ。道から車を排除すれば遊び場になる。林間学校最終日から・・・)

 小学校やその後の子どもの生活で思うことは、学童や塾などの施設に閉じ込めるのではなく、地域で遊べる環境を作ることだと考えます。昔は、地域で遊び場を見つけ、さまざまな遊びを異年齢でうまく調整しながら遊びました。
 自然の中だけでなく、都会の中でも遊びはできます。阻害したのは路地まで入り込む「車」でした。これを除去して、開放的な家造りを行い、地域の目で監視できれば、子どもたちが施設ではなく地域に戻ってきます。

 街づくりでは活性化を謳うところが多いのですが、そのほとんどは「お金」の活性化です。子どもたちが町じゅうで遊ぶ姿、イキイキした目をもつ「活力ある街づくり」があっていいはずです。そのために便利な車を少しだけ遠慮させることも大切だと思います。

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                    (竹トンボに興じる子どもたち。林間学校から・・・)

 子ども手当に反対する人が多いのですが、子ども手当の意義を分かっていない人だと思います。また、与党もその辺りのしっかり説明をしていないと思っています。
 いろいろ言っても老後を安心して暮らす年金制度は、子どもがいないと維持できません。所得の高い国会議員や、鼻タレ小僧で済まされた子育て経験の昔の人では理解不足です。

 国の防衛や子育てに共通するのは「自立心」の欠如です。人任せではなく、自分で守り、育てる気概や社会制度が必要ですが、もっと重要なことは、国の将来像です。
 質素・倹約したら、そこそこ暮らせることや、親のぬくもりや背中で愛情を感じる子育て社会を実現すると、自殺や自暴自棄で罪を犯す人は減るのではないかと思っています。
 
 願わくば、そのような理念と実行力を持った政治家が現れることです。

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  (林間学校は家庭の延長。活力が増した子どもたち。最終日はクールにかつ、元気に別れる。)
posted by 塾長 at 08:15| 教育・子育て

2010年12月08日

幼稚園入園の判断!

 毎日、小学校へ通う3人娘以外の下3人の幼児とともに、ニワトリや馬、メダカやアヒル、ウサギ、キジなど自宅で飼っている家畜・家きんの世話をします。

 それぞれ食べるものや世話の仕方が違います。馬は馬小屋から出して体を水洗い、馬ふんの片付け(後でたい肥にします)。ウサギやニワトリには家の周りの草を採りに行きます。味噌汁のだしで残った炒り子やカツオ、流しに残った生ごみを、草や米ぬかに混ぜて調合します。ニワトリやアヒルは同じ食べものです。水はすべての動物に共通に上げます。新鮮な水です。アヒルのいるスペースに置いてある古い流しのシンクには井戸水を溜めます。

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(林間学校でも同じことをしますが、今の子どもは食べカスとヌカなどを混ぜる時手が汚れるといって、誰も手をバケツに入れようとはしません。極度の清潔感は免疫性を劣化させる。)

 水道水や井戸水(2カ所)、雨水タンクなどがあって、それぞれタンクも蛇口も違います。間違えないようにしなければなりませんが、3歳の「さわみこ」でもチャンと覚えています。リュウキュウメダカ・タイワン金魚・日本の金魚は池も含めて13カ所に分けているので、エサも違うし、水槽は時々水変えもしなければなりません。

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        (自分より大きな体をした野生の馬を引く5歳の朴然。幼稚園より貴重な体験。)

 斜面に建つ住まいなので、上がったり降りたり結構な運動量になります。大体2時間くらいかけてえさ上げが終わります。土日や祝日は、家族8人で対応します。エサあげの合間には、自分たちで見つけたツルを使って、ターザン遊びをすることもあります。

 家の上のタチガー(名水百選のひとつ)から流れ出る湧水はわが家の前の側溝を流れてきますがその水を途中、パイプで取って敷地内に流しています。導入口のパイプの先に枯れ葉が詰まるので、これを除去するのも、子どもたちの仕事です。


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                 (清掃中の兄妹。井戸水を使って高箒で掃く。)
 
 その間、雛が孵った!アヒルが死んだ!カマキリがいた!エビを見た!馬が寝っころがった!など子どもたちがあちらこちらで歓声を上げます。

 片付けも大変です。バケツやホウキの片付け、水のホース巻き、道具の整理、明日の準備などなど。うだるような暑さの中でも、寒い冬でも、雨や台風、正月、お盆でも一日も欠かすことはありません。
 まさに「アメニモマケズ、カゼ(風邪・病気や怪我)ニモマケズ・・・」の世界です。

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              (明日のために寒くてもチャンと長靴は洗う。裸足になって・・・)

 昨年、第4子の長男・朴然が幼稚園に入る年になり、通わせるかどうか、家族会議をしました。ちょうどその頃、近くの遊休地を利用してヒマワリの種を幼稚園児に撒かせるイベントがありました。三女までは幼稚園に通っていたので、参加しています。
 ただ、私は自然の摂理を逸脱したこの手のイベントには反対の立場なので、「ヒマワリは夏咲くものだよ。人間が自分たちが楽しみたいという都合でヒマワリの命を勝手に操作するのは間違いだと思う。いつも、林間学校で言っているよね。幼稚園に通う年頃で、『ヒマワリは冬咲く』ものだと間違って思うといけないので、明日、幼稚園に話しをしてこよう!」といいました。

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(2歳の末っ子の長靴まで洗って、干す。下向けにして干すのは、親の仕事を見ているからか・・)

 実際に、幼稚園に問いただしましたが、「教育委員会から言われたのでやります。」との返事。季節感を混乱させるような行事に対して、無頓着な答えでした。教育的な意義がまったく見えませんでした。そこで、「朴然、お父さんは、冬に咲く元気のないヒマワリを見るのは忍びない。幼稚園に行ったら、ヒマワリの種をまかなきゃならないけど、どうする?」「行かない!朴然は『ぬちゆる幼稚園(我が家の別名)』がいい」と言い出しました。

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                 (誰とはなく、食事前には子どもが台を拭く。)

 結果、今年だけでなく、来年も幼稚園には行かないことにしました。幼稚園や保育園。年齢制限や目的が若干違いますが、いずれも幼児期の保育には変わりません。
 今の社会では通わせるのが当たり前、あるいは、義務的に通わせているような気がします。親は子どもの育て方をもっと主体的に考えるべきではないかと思います。

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       (「ごちそうさまでした!」。食べ終わったら、自分の食器以外も流しへ運ぶ。)

 
 幼稚園や保育園に行けば、確かに団体生活には慣れるかもしれませんが、小学校に入れば否が応でもそれ以降、10年以上も学校で団体生活が続きます。社会人になって組織をもつ会社などに入れば、一生のほとんどを団体生活で過ごすことになります。せめて幼児の間は、家庭の事情が許せば個性的に暮らしてもいいのではないかと思っています。

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 (役割分担が3歳にしてよく分かっている様子。ウサギ小屋の糞掃除をする「さわみこ」)

 幼児期の成長で大切なのは、自然を体感すること、親子・兄弟間の秩序を守る、感謝の気持ちを持つ、協調性や自立心の確立、チャンと挨拶ができることなどだと思っています。
 幼稚園や保育園に通っていても、家では後片付けも玄関の靴並べもできない子どもがいます。朝に送り、午前中に迎えに行く暮らしでは、子どもは食事の後は食べっぱなし、片付けもしなくてそそくさと家を跡にします。何ための幼稚園かなと疑問を感じます。

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 (「おやすみなさい!」。親に礼をした後、おどけて「敬礼」をしてみせることもある。)

 家畜・家禽お世話も、お母さんまかせではなく、自分で積極的にする、死んだら手を合わせて埋めるなど、幼稚園や保育園では体験できないように思います。
 人工的な空間で、同じような能力を持たせるための保育を受けるよりは、周りの自然や家族以外の命や世界を知り、能動的に動くことのできる子どもに育てたいと思っています。

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(お手伝いの合間に、敷地内で見つけたツルを使って遊ぶこともある。幼稚園より楽しそうである)

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(毎回の食事前には家族ミーティングが始まる。8人全員参加。発表能力が上がりそう。テレビがない分、家族の会話は数倍ある)
posted by 塾長 at 12:49| 教育・子育て

2010年12月06日

加害者にならないために・・・

 虐待や自殺など、全国で痛ましい事件が相次いでいます。そんな中、中学生の人権作文コンテストの県内最優秀作品が新聞で公開されていました。5点の作品の中で一番印象深かったのは「いじめという病気の治し方」の作文。

 他の作文も、それぞれ感心するところはありましたが、なんといっても説得力があったのは、当事者の意見だったからです。その他の中学生は、家族や友だちが主人公でした。

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            (我が家のベランダで羽化するクマゼミを、居ながらにして見る)

 また、内容についてもリアルで、勇気ある意見を堂々と述べていました。あらすじは、中2に進級した直後、クラスメイトから「用事があるので給食の準備をしてほしい」と頼まれたことがきっかけです。人のいい彼は気持ちよく代役を務めました。しかし、その後もずっと続き、次第に周りの人間まで押しつけるようになったようです。

 その後、態度が大きくなり、早く持ってこい、とか、嫌いなものを入れるな、などと注文をつけるようになりました。もう我慢できないと考え断ると、トイレに呼び出され殴るけるの乱暴を働きました。
 乱暴を受ける時には人だかりができるが、誰も止めようとはせず、先生を呼びに行くこともなかったそうです。

 数か月後、母親に正直に話をしたら、学校やいじめていた側の保護者との話し合いがもたれました。そこでみんなから「気付いてあげられなくてごめんね」と言われたそうですが、彼は「一番つらかったのは、いじめられている瞬間ではなく、誰も助けず自分は孤独なんだ」と思った瞬間だと述べています。

 彼は最後に「いじめは病気。放置したら治りにくくなる。みんなで気を配り早期発見すれば食い止める可能性がある。自分たちがワクチンになりいじめを予防、根絶していきたい」と結んでいます。

 多分、指摘された相手やその家族、先生らが今も在籍する中学校内で、これだけはっきり書けたのは、いじめを受けた当事者として、いじめをなくしたい気持ちがよほど強いのだと察しました。

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         (家の守り神「ヤモリ」。木造住宅の不安のひとつはシロアリ被害。光を求めて寄ってくる羽を持つシロアリを見事に食べてくれる)
 
 以前から言っていることですが、加害者がいなければ被害者はいません。また、被害者と加害者は表裏一体です。加害者を作らないことが一番で、被害者であっても知らぬ間に加害者になっていることもあると言うのが、私の考えです。
 しかし、よく申し出てくれた中学生がいました。学校も保護者もしっかり、実態を直視すべきです。きれいごとでは世の中の課題は解決しません。
 12月にも林間学校を開催しますが、目的は「人格形成」です。それを自然から学ぶプログラムを、毎回手段を変えて実施しています。

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              (家を守るためには床下の土壌生態系も大切。これはモグラ君です)

 ただ、現在の日本社会を俯瞰すると、警察官や医者、弁護士、教師など社会の規範とされた職に就いている者の破廉恥な犯罪が目につきます。子どもたちの夢を大人が自ら消しているように感じます。
 目標は高額な所得がとれるスポーツ選手?だんだん世の中が悪い方へ変化しているような気がします。

 自己中心的な人間が戦後、増えました。さらに自然や人以外の生きものをコントロールしようとする人間中心主義も気付かないうちに浸透しています。
 ゴキブリ一匹家に入り込むと大騒動するのも、異常な人間中心主義の現れです。

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        (この夏、林間学校で曲がった県産材を使って子どもたちが造った竪穴式住居。日本の住まいの原点)

 環境共生住宅と言って省エネばかりに力を入れていて、生きものとの共生はほとんど無視されているのが現状です。悲惨な事件の裏側に潜むのは意外にも、このようなわがままな人間中心の自然観があるように思います。

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           (子どもたちが造った竪穴式住居の屋根に使った草の中から出てきた「ナナフシ」。日本人は小動物とともに暮らした)

 「快適は大敵!」、「断熱(材)は(自然との)断絶!」と、いつも思っています。暑さ・寒さを楽しみ、家に入り込む小さな生きものを許容する大らかさがなければ、感性は豊かになりません。感受性が高くなると、「加減」や「相手の気持ちを察する」ことができるので思いやりが育ちます。

 今の日本は、厳しい自然と戦うような西洋の自然観が浸透しています。穏やかで四季を愛でる情緒豊かな日本の自然は、拒絶するどころか大いに受けいれるべきです。そうすれば次は、自然とどのようにしたら共生できるか、ということを学ぶことができます。
 自然や生きものと共生する住まいで暮らすと、学ぶことが多く、また、社会の課題の解決策が自然の中にたくさん散りばめられていることに気付くと思います。
 学校環境でも緑の多い学校は、校内暴力が少ないという統計もあります。

 家の窓をあけましょう。もともと、日本の家屋は自然と仲良く暮らしました。そしてさまざまなことを居ながらにして学んだものです。開放的な住まいづくり・暮らし方を今後も提案していきたいと思っています。
posted by 塾長 at 00:18| 教育・子育て

2010年12月01日

「家内手工業」!

 小学2年生の次女が、「誕生会に呼ばれているけど、行っていい?」と聞きます。いつの頃からか、この手のお誘いが増えました。「呼ばれた、呼ばれなかった」、「呼ぶ、呼ばない」というのは、誰とでも分け隔てなく仲間を作って欲しいと言う意味ではあまり良いことではにように思います。だから、我が家では、誕生会などというものはしません。いじめの原因にもなるからです。
 
 今日から師走。ちょうど一か月後は、元旦。日本人は家族全員で年を重ねます。挨拶も「(無事、家族が一緒に新しい年を迎えることができたのでお互いに)明けまして、おめでとうございます。」。出産した日を祝って、個人の誕生日にそれぞれお祝いをするのではありません。日本人は、おかあさんのおなかの中に命の宿ったときから年を計算する「数え年」でした。

 我が家では、お正月にこのことを子どもたちに話し、梅干しをお茶に入れて、家族全員で「良かった、おめでとう!」とお互いに挨拶し合います。

 単に新しい年が来たので「A Happy New Year」とは、随分違います。食べられる「命」に感謝して「いただきます」・「ごちそうさま」、自然を作った(とされる)神に感謝して「アーメン」との違いをみても、日本人の命や自然への考え方の奥深さを感じます。
 しかし、次第に西洋化されて、暮らしの中のしきたりの意味さえよくわからなくなりつつあるのは、残念なことです。

 家の造りも随分西洋化しました。近年は子ども部屋に「鍵」をかけることを要望するところさえあります。わが子が何をしているのか把握できないようでは、親は失格です。良い意味での「見て見ぬふり」ができるように育てるのが、親の力です。
 西洋の家は個人主義が徹底してしるのでそれぞれ部屋が必要になります。だから、どうしても坪数が増えます。子どもの成長期は一時の期間です。しばらくすると出ていくので、部屋は空きます。空けば快適さを求めて買い集めた「モノ」が人間に代わって占拠することになります。
 日本の住宅は融通性に富んでいます。一つの部屋を多用途に使い分け、MAXをしのぎます。

 先の大戦後、全体主義は戦争につながるから悪だとばかり、個人主義が広がりました。個人主義が利己主義に変化し、身勝手な行動やわがままな子が増えました。その子どもたちが大人になって、事件を起こし、幼いわが子の命や弱い立場の人が無残にも犠牲になっています。
 
 子育ても、夫婦生活を重んじるばっかりに核家族化が進みました。結果、共稼ぎの家庭では、保育園や学童に子どもを預けます。自分で育てず、他人任せの子育てです。「待機児童をなくそう!」という運動には疑問があります。本来、子どもは親が育てるもの。忙しい時には親に頼ってもいいのです。子どもが乳を求める間くらいは、お母さんはゆっくり子育てに専念してもらいたいものです。そのための国の施策なら的を射ていると思っています。

 脱線ついでに言えば、オール電化の家にも疑問を感じます。火災の危険性が少ない、空気が汚れないなどのメリットを説いているようですが、火を見ずに育つ子どもはどうなるのだろう?と心配になります。「火加減」を炎で読み取れないまま、大人になります。「スイッチ加減」で育った子どもたちは、スイッチのない社会には対応できないばかりか、「炎」に対して異常に関心を示すことにもなります。

 国の重要文化財に指定されている北中城村にある中村家の中村さんも、人が住まなくなったのでかまどを使うことがなくなり、煤(すす)が出ないので瓦下の竹が腐り始めた、と嘆いておられました。木造の我が家でも同じこと。来年は、囲炉裏(いろり)を入れようか、と本気で思っています。

 さて、利己主義や人間中心主義は、西洋化の波とともに日本にまん延しました。5歳の長男が言います。「また、民主党と自民党がケンカしているの?」
 我が家はテレビのないラジオの世界です。目には見えませんが、政治のニュースは子どもに伝わります。政策論争より、争い事に映るのでしょう。現に、今の政治は相手の言葉の揚げ足取りばかり。子どもでも辟易しているようです。お互いの党利だけを主張して相手を攻撃することに集中しているように思えてなりません。国民はどこに位置付けされているのでしょうか?
 
 マスコミもスポーツを多く扱うようになりました。これも争い事の一つです。見るには楽しいですが、プロの場合はお金をもらってやっているので、冷めた見方をしてしまいます。また、高額な給料や特定の選手をターゲットにした報道にも問題ありと思っています。

 自由とわがままは違います。コマーシャルやマスコミの報道に惑わされず、個人の自立と自然を含めたさまざまな別社会との共生を、自分たちの暮らしのなかでどのようにしたらできるのか、大いにそれぞれの家庭で議論して欲しいと思っています。

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記事内容とは関係ない写真です。昨日は、木造基礎のコンクリート打ち。現場で働く設計者。

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小雨が降っていたので、私に合わせて布基礎の天端(てんば)を養生する家内。重要な労働者です。

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雨の中、コンクリートの固まりの速さに追われましたが、チョッと目途が立ったので、慣れない仕事の合間には笑顔も・・・。働く設計事務所の「奥さん」。学校に行った3人以外の残り3人の子どもたちは、現場内に置いた車の中でじっと待っていてくれました。(昨日は雨が降っていたので・・)

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 分離発注・施主支給のシステムなので、各業者の間にある隙間を埋めることもある。これは基礎に埋め込むアンカーボルト(100本)。当日慌てないように、埋め込む長さとねじ山の保護のため、テーピングをしている所です。家族みんなが楽しみながら、気持ちを込めて取り組んでいます。これが本当の「家内手工業」。

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一方、これは我が家で設置している自販機。当初はゴミが出るので設置に反対でしたが、当時、我が家には公共の水道がなく井戸でした。従って、いざという時、飲める水がないので、非常水確保のために設置。(当時、家内は妊娠6ヶ月で何があるかわからない不安もありました)

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ところが、最近、すぐ近くに新しい自販機が登場。少ない売り上げがますます上がらず、赤字は膨らむばかり。(電気代が売り上げをかなりオーバー)一本の単価を下げてみましたが、近くの自販機も合わせて下げる始末。現在、水道も来たので、いっそ撤去しようかと思いましたが、ノンフロンにこだわったことや、外装を周辺に合わせた絵をラッピングしたこともあって、そのまま継続するようにしました。
つまり、内容勝負。そこで自販機にチョッとだけ説明をしてみました。お近くに御寄りの際は、是非、売上げにご協力ください。 
posted by 塾長 at 09:36| 教育・子育て

2010年11月25日

時代を越えた住まいの共通点!

 昨日、大型ショッピング店に買い物に行ったついでに、併設する大型電気店に行ってみました。大型続きで恐縮ですが、店には大型の薄型テレビが並んでいました。テレビのない生活に慣れてしまっている我が家の子ども(親)は、広くて鮮やかな映像にチョッと目を奪われました。

 聞けば、来年春から地上デジタルに移行するので、全国的に品薄になるとか・・・。我が家に仮にテレビを入れるとどうなるのか聞いたところ、アンテナ工事と製品が必要になるので結構な金額を提示されました。もともとその気がないので聞き流しましたが、日本全国がデジタル化しなければならないなんて、なんでー、と思ってしまいました。沖縄県は全国最低のデジタルテレビ化でまだ80%にも満たないようですが、国の都合でテレビ難民が増えることは、昔、テレビをお金持ちの隣家に遠慮しながらも観に行っていた時代よりもっといびつな感じがします。
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 テレビがある(見る)のが当たり前と捉える考え方が横行しています。最近は林間学校に参加する家族の中にも、テレビなしの家庭がたまにあります。テレビは決して悪い家庭電化製品ではありません。しかし、テレビやゲーム機に依存した生活は、人間を受動的にしてしまいます。口をあけてポカーンとしている子が増えました。自ら考えない子どもたちです。

 結果、自立心が育ちません。

 デジタルテレビに変えるか、チューナーを取り付けなければ見えないので、使っていたアナログテレビはみんな廃棄処分です。どこがエコ(ポイント)かと言いたくなります。車も同じことです。

 最近、少年法が改正せざるを得ないように、犯罪の低年齢化が進んでいます。そのようになったのは、今の大人のせいかもしれません。

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 日本は高度経済成長期に、自分が楽になる道具を開発しました。まずは家庭の主婦の掃除、洗たく、調理。そのあとは快適性を重んじた冷暖房、車。めんどくさいことは年々減って、インスタント食品に代表される「簡単・便利」の世界がきました。「重厚長大」から「軽薄短小」へ。モノだけでなく社会システムも同じように変わりました。

 最後はアナログからデジタルへ。つながりのない薄っぺらい世界です。インターネットも携帯も便利ですが、どこかさびしモノがあります。

 一生のうち、長い時間を過ごす住まいもデジタル化されました。機械力やコンピュータが家を作ります。図面はCAD、木造でいえば切り込みはプレカットです。
 現場から職人が消え、ノミやカンナなどの道具も消えました。戦後の拡大造林計画で日本中の山は杉やヒノキ、マツなどの住宅用材になる木が植林され、原生林が消えて行きました。今、里山に出没する熊やイノシシ、シカなどは人間の開発の犠牲者です。
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 次第に人間自体にも影響が出てきました。感性の喪失、機能の劣化、自立心の崩壊・・・。顕在化する凶悪事件の背景には、現代の暮らしの底流のある利己主義や人間中心主義。能書きは得意ですが、行動力が全くない子どもや大人。他人のことはどうでもいい、政治家が「国益」ばっかり叫ぶ姿がそれを象徴しています。

 森の民、循環型社会であった日本人はもともと、自立心と共生心を持ち合わせていました。残念ながら近年、新経済主義といわれる新たな競争社会が台頭してきて、日本もアメリカ並みの不安な社会になりつつありますが、住まいと人の育ち方をチョッと検証するだけで、方向転換は可能のような気がします。

 我が家や自分が設計した住宅は木造ばかりですが、要するに子育てや自分の気持ちを高めていくには、これが一番いいから結果的に伝統木造の住まいとなります。特に、自然とのつながりが深い木製建具は切り離せません。

 我が家を開放して開催する林間学校でも、参加した子どもたちはわずか2泊3日でも、一生においては大きな経験をします。暑さ寒さをほどほどに感じながら暮らす体験をするからです。
 今の木造住宅は構造やデザインで昔の家よりバラエティーに富んでいます。また、家庭電化製品も増えました。ただ、建具を木製にすると、季節の風や雨、土や草、花などの自然の香りが漂ってくるのが分かります。閉めっぱなしのサッシでは感じることができません。
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 私は幼いころ父親を亡くしたので、決して上等の家には住んでいません。しかし、そこには自然を感じ取る隙間文化がありました。時代が変わっても、隙間から学ぶものはたくさんあります。共通点は、自然との共生、能動的で自立心が芽生える暮らしです。

 なるべく、自分以外の命と接することです。相手の痛みも分かります。おのずとやさしくなります。しかし、やさしさだけでなく、同時にたくましさも身に付きます。
 宗教、科学のあとの社会哲学は「慎ましさ」と言われています。節度や分別(ふんべつ)を持つ大人になるためには、やっぱり面倒くささや、わずらわしさから逃避してはなりません。

 明日は、タイムス住宅新聞の「木造特集」が掲載される予定です。今週号の表紙は、私が設計したやんばるのおうちです。時間がある方は、どうぞ、ご覧になってください。後日、このHPにもアップします。
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posted by 塾長 at 23:26| 教育・子育て

2010年11月16日

加減!いいかげん!

 昨夜、いつものように8人そろって夕食が始まりました。定番は「家族ミーティング」。誰ともなく、席に着くと「ハイ!」と手を挙げます。だいたい、小さな子を優先して当てます。「今日は・・・」と報告や感想などが述べられます。
 テレビのない生活では、家族の会話がにぎやかです。

 そんな中、私が「今日のご飯は格別おいしいねー、どこ(産地)のお米ね?」と聞くと、どうも、産地ではなく、火加減が成功したように答えました。

 以前は水加減、つまり、水加減は水の量ではなく、水に浸した時間を聞いたものです。これも、ご飯のおいしさに影響します。
 しかし、これがうまくいっても、時々、べっとりしたご飯に遭遇する時もあります。私の言うおいしいご飯は、ご飯粒がピカピカ光っていて粘りのあるご飯です。

 昨夜のご飯は、まさに「おいしいご飯」でした。聞けば「火加減が良かった」からだとか・・・。
我が家はガスが熱源ですが、羽釜で炊きます。ICが入った電子炊飯器や電気炊飯器ではありません。昔のように、薪をくべながら炊くのではありませんが、ガスとはいえどもチャンと「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いても蓋取るな!」の教え通りしないと、おいしく頂けません。

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          (熱源がガスでも、火加減を毎日体験する羽釜での炊飯)

 ご飯は最初は弱火で炊き始め、途中で強火で炊きます。諺は「・・・なかパッパ」で終わるのが一般的なので最後の「・・・蓋とるな。」が抜けて伝わる場合が多いようです。
 実は炊いた後の蒸すのがお米の料理ではむずかしいところ。しっかり蒸せるように、最後まで強火が必要なのです。そのせいで、羽釜の底に「おこげ」ができます。子どもたちはこれが大好きです。

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        (林間学校では竹の筒を利用した炊飯。火加減はガスの数倍難しい)

 林間学校でも羽釜や竹でお米を炊くとおこげができます。最近の子どもたちは「癌になる」といって食べない子もいます。炊飯器に慣れているせいだと思います。


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         (できあがり。加減がうまくいくとおいしくいただける・・・)

 炊飯器によるご飯づくりには、火加減が省略されます。お風呂も温度の調整がされたお湯がレバーひとつで自動的に出てきます。暮らしの中で加減をすることが、少なくなりました。

 近年、いじめや児童虐待、自殺に追い込むいやがらせなどの事件が目立ちます。批評家は「加減」が分からず、死に至ったと子どもや親のせいにしますが、日ごろから加減を教えない家庭生活や学校生活に問題があると言う人はほとんどいません。「いい加減にしろー]と言いたくなります。
 学校の冷暖房も同じことで、服で調整することなしに、スイッチのON・OFF、温度設定で対応しようとしているので、子どもから「加減能力」が失われていきます。

 感性の喪失、機能の劣化を言う前に、自分で加減する作業を日常生活で経験させることが大切なように思います。
 
 教師や上級生、親など子どもたちにとって抵抗しにくい関係者が、これ以上手を出したらどうなる、という結果を想像できないのは「加減経験のなさ」から出てきているのではないかと思っています。

 水を与えかた、火の強弱、すべて加減です。子育ての専門家が、冷暖房の効いた部屋で、市販のペットボトルのお茶を飲みながら、加減のなさを指摘する姿を見ると、説得力がないように感じます。

 加減ができると、自立心も高まります。子どものうちから暮らしのなかで、加減のわかる作業を取り入れたいと思っています。うまく加減ができると、おこげもできなく仕上がり、おいしくもありがたくいただけます。

 良い(いい)加減のわかる子どもを育てましょう!感性が芽生えるからです。
posted by 塾長 at 10:28| 教育・子育て

2010年10月30日

子どもは国の宝!

 午後、沖縄市の現場を見た帰り、近場でどこかただ(無料)で遊ぶところはないかと思案した揚句行ったところは北谷町の桃原公園。ここには83メートルを一気に下りる滑り台があります。以前にも行ったことがあるので、6人の子どもたちは、先を争うように現地へ。

 普段は自宅や自宅周辺の自然の中で遊ぶ野生人もたまには、人工的な空間もよろしいようで・・。
ただ今日は子どもたちだけで馬を小屋から出し、裏山の牧場に連れて行きました。帰りが遅いなぁ、と思っていたら案の定、帰り道、木にまつわりついたツタを使ってターザン遊びをしたようで・・・。「楽しかった!」と満足の声が上がりました。・・・しかし、どちらも大事だと思います。

 公園にはまたまた高校生か中学生か分かりませんが、その滑り台の中央にあるアスレチックジムで10人くらいがたむろして喫煙中。遠くから見下ろしていたところ、そのうち、どこかに消えて行きました。そのあと、同じ年代の中学生が「こんにちわ!」とあいさつしていきます。
 将来を不安視していたところで、爽快な気持ちになりました。どこでどのようにして人は変わるのでしょう?

 最近、子ども手当を満額支給せず、待機児童をゼロにするために保育所を充実させる案が浮上しています。しかし、これは見かけの政策にしか映りません。国として子育てをだれがするのが一番いいのか、よくわかっていない人の考えだと思います。
 なぜかと言うと、目に余る青少年の非行は、家庭の崩壊があると考えるからです。今日みた子どもたちにも親はいます。知ってか知らずか、タバコを公衆の面前で堂々と吸うのを、注意できない親がいる限り、非行・犯罪はなくなりません。

 待機児童ゼロは見た目にはよく映りますが、要は「女に働け!」と言っているようなものです。母子家庭なら、暮らせる分の最低補償をするべきです。子ども手当の額が増えてもいいと思います。両親がいる家庭なら、不足分を支給したらいいと思います。大金持ちはいらないでしょう。

 なんでも一律というのは問題です。政治家はタバコや焼酎など、庶民の安価な嗜好品にすぐ税金を掛けます。消費税も同類です。これは簡単でかつ、反対しにくいやり方です。短絡的で安易な政策としか言えません。もっと、将来どうあるべきかしっかり考えて政策を実行すべきです。

 「三つ子の魂百まで」です。生まれて一定の期間、子どもは母親と暮らすのが一番です。その間の補償は国の義務だと思います。他人に預けて育てるのではなく、自分の手で育てるべきです。
 打算的になれば、手のいる子育てはしたくない、しかし、それでは正常な人の循環は出来ません。将来を担う子どもたちがいないと、この国はなんの力を講じなくても自ら崩壊します。老人を介護するのも、経済を活性化するのも、基本は次世代が存在するのが最低条件です。子育てを簡単に考えるのは大間違いです。しかも、他人に預けておいて「子育てした」と豪語する人(政治家)もいます。自らチャンと育ててモノを言うべきです。

 マスコミや自民党は現金支給をバラマキと吹聴してしていますが、そんなことはありません。民主党も、良い政策かもしれませんが、もっとキメの細かい手当策を講じるべきでしょう。

 女の人たちも、保育所の充実で安心してはいけません。ますます、自分自身が窮屈になるだけです。子どもを産んだら、しばらくは子育てに没頭して下さい。そのようになれる社会を私は望んでいます。
posted by 塾長 at 20:26| 教育・子育て