2010年12月01日

「家内手工業」!

 小学2年生の次女が、「誕生会に呼ばれているけど、行っていい?」と聞きます。いつの頃からか、この手のお誘いが増えました。「呼ばれた、呼ばれなかった」、「呼ぶ、呼ばない」というのは、誰とでも分け隔てなく仲間を作って欲しいと言う意味ではあまり良いことではにように思います。だから、我が家では、誕生会などというものはしません。いじめの原因にもなるからです。
 
 今日から師走。ちょうど一か月後は、元旦。日本人は家族全員で年を重ねます。挨拶も「(無事、家族が一緒に新しい年を迎えることができたのでお互いに)明けまして、おめでとうございます。」。出産した日を祝って、個人の誕生日にそれぞれお祝いをするのではありません。日本人は、おかあさんのおなかの中に命の宿ったときから年を計算する「数え年」でした。

 我が家では、お正月にこのことを子どもたちに話し、梅干しをお茶に入れて、家族全員で「良かった、おめでとう!」とお互いに挨拶し合います。

 単に新しい年が来たので「A Happy New Year」とは、随分違います。食べられる「命」に感謝して「いただきます」・「ごちそうさま」、自然を作った(とされる)神に感謝して「アーメン」との違いをみても、日本人の命や自然への考え方の奥深さを感じます。
 しかし、次第に西洋化されて、暮らしの中のしきたりの意味さえよくわからなくなりつつあるのは、残念なことです。

 家の造りも随分西洋化しました。近年は子ども部屋に「鍵」をかけることを要望するところさえあります。わが子が何をしているのか把握できないようでは、親は失格です。良い意味での「見て見ぬふり」ができるように育てるのが、親の力です。
 西洋の家は個人主義が徹底してしるのでそれぞれ部屋が必要になります。だから、どうしても坪数が増えます。子どもの成長期は一時の期間です。しばらくすると出ていくので、部屋は空きます。空けば快適さを求めて買い集めた「モノ」が人間に代わって占拠することになります。
 日本の住宅は融通性に富んでいます。一つの部屋を多用途に使い分け、MAXをしのぎます。

 先の大戦後、全体主義は戦争につながるから悪だとばかり、個人主義が広がりました。個人主義が利己主義に変化し、身勝手な行動やわがままな子が増えました。その子どもたちが大人になって、事件を起こし、幼いわが子の命や弱い立場の人が無残にも犠牲になっています。
 
 子育ても、夫婦生活を重んじるばっかりに核家族化が進みました。結果、共稼ぎの家庭では、保育園や学童に子どもを預けます。自分で育てず、他人任せの子育てです。「待機児童をなくそう!」という運動には疑問があります。本来、子どもは親が育てるもの。忙しい時には親に頼ってもいいのです。子どもが乳を求める間くらいは、お母さんはゆっくり子育てに専念してもらいたいものです。そのための国の施策なら的を射ていると思っています。

 脱線ついでに言えば、オール電化の家にも疑問を感じます。火災の危険性が少ない、空気が汚れないなどのメリットを説いているようですが、火を見ずに育つ子どもはどうなるのだろう?と心配になります。「火加減」を炎で読み取れないまま、大人になります。「スイッチ加減」で育った子どもたちは、スイッチのない社会には対応できないばかりか、「炎」に対して異常に関心を示すことにもなります。

 国の重要文化財に指定されている北中城村にある中村家の中村さんも、人が住まなくなったのでかまどを使うことがなくなり、煤(すす)が出ないので瓦下の竹が腐り始めた、と嘆いておられました。木造の我が家でも同じこと。来年は、囲炉裏(いろり)を入れようか、と本気で思っています。

 さて、利己主義や人間中心主義は、西洋化の波とともに日本にまん延しました。5歳の長男が言います。「また、民主党と自民党がケンカしているの?」
 我が家はテレビのないラジオの世界です。目には見えませんが、政治のニュースは子どもに伝わります。政策論争より、争い事に映るのでしょう。現に、今の政治は相手の言葉の揚げ足取りばかり。子どもでも辟易しているようです。お互いの党利だけを主張して相手を攻撃することに集中しているように思えてなりません。国民はどこに位置付けされているのでしょうか?
 
 マスコミもスポーツを多く扱うようになりました。これも争い事の一つです。見るには楽しいですが、プロの場合はお金をもらってやっているので、冷めた見方をしてしまいます。また、高額な給料や特定の選手をターゲットにした報道にも問題ありと思っています。

 自由とわがままは違います。コマーシャルやマスコミの報道に惑わされず、個人の自立と自然を含めたさまざまな別社会との共生を、自分たちの暮らしのなかでどのようにしたらできるのか、大いにそれぞれの家庭で議論して欲しいと思っています。

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記事内容とは関係ない写真です。昨日は、木造基礎のコンクリート打ち。現場で働く設計者。

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小雨が降っていたので、私に合わせて布基礎の天端(てんば)を養生する家内。重要な労働者です。

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雨の中、コンクリートの固まりの速さに追われましたが、チョッと目途が立ったので、慣れない仕事の合間には笑顔も・・・。働く設計事務所の「奥さん」。学校に行った3人以外の残り3人の子どもたちは、現場内に置いた車の中でじっと待っていてくれました。(昨日は雨が降っていたので・・)

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 分離発注・施主支給のシステムなので、各業者の間にある隙間を埋めることもある。これは基礎に埋め込むアンカーボルト(100本)。当日慌てないように、埋め込む長さとねじ山の保護のため、テーピングをしている所です。家族みんなが楽しみながら、気持ちを込めて取り組んでいます。これが本当の「家内手工業」。

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一方、これは我が家で設置している自販機。当初はゴミが出るので設置に反対でしたが、当時、我が家には公共の水道がなく井戸でした。従って、いざという時、飲める水がないので、非常水確保のために設置。(当時、家内は妊娠6ヶ月で何があるかわからない不安もありました)

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ところが、最近、すぐ近くに新しい自販機が登場。少ない売り上げがますます上がらず、赤字は膨らむばかり。(電気代が売り上げをかなりオーバー)一本の単価を下げてみましたが、近くの自販機も合わせて下げる始末。現在、水道も来たので、いっそ撤去しようかと思いましたが、ノンフロンにこだわったことや、外装を周辺に合わせた絵をラッピングしたこともあって、そのまま継続するようにしました。
つまり、内容勝負。そこで自販機にチョッとだけ説明をしてみました。お近くに御寄りの際は、是非、売上げにご協力ください。 
posted by 塾長 at 09:36| 教育・子育て

2010年11月25日

時代を越えた住まいの共通点!

 昨日、大型ショッピング店に買い物に行ったついでに、併設する大型電気店に行ってみました。大型続きで恐縮ですが、店には大型の薄型テレビが並んでいました。テレビのない生活に慣れてしまっている我が家の子ども(親)は、広くて鮮やかな映像にチョッと目を奪われました。

 聞けば、来年春から地上デジタルに移行するので、全国的に品薄になるとか・・・。我が家に仮にテレビを入れるとどうなるのか聞いたところ、アンテナ工事と製品が必要になるので結構な金額を提示されました。もともとその気がないので聞き流しましたが、日本全国がデジタル化しなければならないなんて、なんでー、と思ってしまいました。沖縄県は全国最低のデジタルテレビ化でまだ80%にも満たないようですが、国の都合でテレビ難民が増えることは、昔、テレビをお金持ちの隣家に遠慮しながらも観に行っていた時代よりもっといびつな感じがします。
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 テレビがある(見る)のが当たり前と捉える考え方が横行しています。最近は林間学校に参加する家族の中にも、テレビなしの家庭がたまにあります。テレビは決して悪い家庭電化製品ではありません。しかし、テレビやゲーム機に依存した生活は、人間を受動的にしてしまいます。口をあけてポカーンとしている子が増えました。自ら考えない子どもたちです。

 結果、自立心が育ちません。

 デジタルテレビに変えるか、チューナーを取り付けなければ見えないので、使っていたアナログテレビはみんな廃棄処分です。どこがエコ(ポイント)かと言いたくなります。車も同じことです。

 最近、少年法が改正せざるを得ないように、犯罪の低年齢化が進んでいます。そのようになったのは、今の大人のせいかもしれません。

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 日本は高度経済成長期に、自分が楽になる道具を開発しました。まずは家庭の主婦の掃除、洗たく、調理。そのあとは快適性を重んじた冷暖房、車。めんどくさいことは年々減って、インスタント食品に代表される「簡単・便利」の世界がきました。「重厚長大」から「軽薄短小」へ。モノだけでなく社会システムも同じように変わりました。

 最後はアナログからデジタルへ。つながりのない薄っぺらい世界です。インターネットも携帯も便利ですが、どこかさびしモノがあります。

 一生のうち、長い時間を過ごす住まいもデジタル化されました。機械力やコンピュータが家を作ります。図面はCAD、木造でいえば切り込みはプレカットです。
 現場から職人が消え、ノミやカンナなどの道具も消えました。戦後の拡大造林計画で日本中の山は杉やヒノキ、マツなどの住宅用材になる木が植林され、原生林が消えて行きました。今、里山に出没する熊やイノシシ、シカなどは人間の開発の犠牲者です。
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 次第に人間自体にも影響が出てきました。感性の喪失、機能の劣化、自立心の崩壊・・・。顕在化する凶悪事件の背景には、現代の暮らしの底流のある利己主義や人間中心主義。能書きは得意ですが、行動力が全くない子どもや大人。他人のことはどうでもいい、政治家が「国益」ばっかり叫ぶ姿がそれを象徴しています。

 森の民、循環型社会であった日本人はもともと、自立心と共生心を持ち合わせていました。残念ながら近年、新経済主義といわれる新たな競争社会が台頭してきて、日本もアメリカ並みの不安な社会になりつつありますが、住まいと人の育ち方をチョッと検証するだけで、方向転換は可能のような気がします。

 我が家や自分が設計した住宅は木造ばかりですが、要するに子育てや自分の気持ちを高めていくには、これが一番いいから結果的に伝統木造の住まいとなります。特に、自然とのつながりが深い木製建具は切り離せません。

 我が家を開放して開催する林間学校でも、参加した子どもたちはわずか2泊3日でも、一生においては大きな経験をします。暑さ寒さをほどほどに感じながら暮らす体験をするからです。
 今の木造住宅は構造やデザインで昔の家よりバラエティーに富んでいます。また、家庭電化製品も増えました。ただ、建具を木製にすると、季節の風や雨、土や草、花などの自然の香りが漂ってくるのが分かります。閉めっぱなしのサッシでは感じることができません。
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 私は幼いころ父親を亡くしたので、決して上等の家には住んでいません。しかし、そこには自然を感じ取る隙間文化がありました。時代が変わっても、隙間から学ぶものはたくさんあります。共通点は、自然との共生、能動的で自立心が芽生える暮らしです。

 なるべく、自分以外の命と接することです。相手の痛みも分かります。おのずとやさしくなります。しかし、やさしさだけでなく、同時にたくましさも身に付きます。
 宗教、科学のあとの社会哲学は「慎ましさ」と言われています。節度や分別(ふんべつ)を持つ大人になるためには、やっぱり面倒くささや、わずらわしさから逃避してはなりません。

 明日は、タイムス住宅新聞の「木造特集」が掲載される予定です。今週号の表紙は、私が設計したやんばるのおうちです。時間がある方は、どうぞ、ご覧になってください。後日、このHPにもアップします。
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posted by 塾長 at 23:26| 教育・子育て

2010年11月16日

加減!いいかげん!

 昨夜、いつものように8人そろって夕食が始まりました。定番は「家族ミーティング」。誰ともなく、席に着くと「ハイ!」と手を挙げます。だいたい、小さな子を優先して当てます。「今日は・・・」と報告や感想などが述べられます。
 テレビのない生活では、家族の会話がにぎやかです。

 そんな中、私が「今日のご飯は格別おいしいねー、どこ(産地)のお米ね?」と聞くと、どうも、産地ではなく、火加減が成功したように答えました。

 以前は水加減、つまり、水加減は水の量ではなく、水に浸した時間を聞いたものです。これも、ご飯のおいしさに影響します。
 しかし、これがうまくいっても、時々、べっとりしたご飯に遭遇する時もあります。私の言うおいしいご飯は、ご飯粒がピカピカ光っていて粘りのあるご飯です。

 昨夜のご飯は、まさに「おいしいご飯」でした。聞けば「火加減が良かった」からだとか・・・。
我が家はガスが熱源ですが、羽釜で炊きます。ICが入った電子炊飯器や電気炊飯器ではありません。昔のように、薪をくべながら炊くのではありませんが、ガスとはいえどもチャンと「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いても蓋取るな!」の教え通りしないと、おいしく頂けません。

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          (熱源がガスでも、火加減を毎日体験する羽釜での炊飯)

 ご飯は最初は弱火で炊き始め、途中で強火で炊きます。諺は「・・・なかパッパ」で終わるのが一般的なので最後の「・・・蓋とるな。」が抜けて伝わる場合が多いようです。
 実は炊いた後の蒸すのがお米の料理ではむずかしいところ。しっかり蒸せるように、最後まで強火が必要なのです。そのせいで、羽釜の底に「おこげ」ができます。子どもたちはこれが大好きです。

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        (林間学校では竹の筒を利用した炊飯。火加減はガスの数倍難しい)

 林間学校でも羽釜や竹でお米を炊くとおこげができます。最近の子どもたちは「癌になる」といって食べない子もいます。炊飯器に慣れているせいだと思います。


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         (できあがり。加減がうまくいくとおいしくいただける・・・)

 炊飯器によるご飯づくりには、火加減が省略されます。お風呂も温度の調整がされたお湯がレバーひとつで自動的に出てきます。暮らしの中で加減をすることが、少なくなりました。

 近年、いじめや児童虐待、自殺に追い込むいやがらせなどの事件が目立ちます。批評家は「加減」が分からず、死に至ったと子どもや親のせいにしますが、日ごろから加減を教えない家庭生活や学校生活に問題があると言う人はほとんどいません。「いい加減にしろー]と言いたくなります。
 学校の冷暖房も同じことで、服で調整することなしに、スイッチのON・OFF、温度設定で対応しようとしているので、子どもから「加減能力」が失われていきます。

 感性の喪失、機能の劣化を言う前に、自分で加減する作業を日常生活で経験させることが大切なように思います。
 
 教師や上級生、親など子どもたちにとって抵抗しにくい関係者が、これ以上手を出したらどうなる、という結果を想像できないのは「加減経験のなさ」から出てきているのではないかと思っています。

 水を与えかた、火の強弱、すべて加減です。子育ての専門家が、冷暖房の効いた部屋で、市販のペットボトルのお茶を飲みながら、加減のなさを指摘する姿を見ると、説得力がないように感じます。

 加減ができると、自立心も高まります。子どものうちから暮らしのなかで、加減のわかる作業を取り入れたいと思っています。うまく加減ができると、おこげもできなく仕上がり、おいしくもありがたくいただけます。

 良い(いい)加減のわかる子どもを育てましょう!感性が芽生えるからです。
posted by 塾長 at 10:28| 教育・子育て

2010年10月30日

子どもは国の宝!

 午後、沖縄市の現場を見た帰り、近場でどこかただ(無料)で遊ぶところはないかと思案した揚句行ったところは北谷町の桃原公園。ここには83メートルを一気に下りる滑り台があります。以前にも行ったことがあるので、6人の子どもたちは、先を争うように現地へ。

 普段は自宅や自宅周辺の自然の中で遊ぶ野生人もたまには、人工的な空間もよろしいようで・・。
ただ今日は子どもたちだけで馬を小屋から出し、裏山の牧場に連れて行きました。帰りが遅いなぁ、と思っていたら案の定、帰り道、木にまつわりついたツタを使ってターザン遊びをしたようで・・・。「楽しかった!」と満足の声が上がりました。・・・しかし、どちらも大事だと思います。

 公園にはまたまた高校生か中学生か分かりませんが、その滑り台の中央にあるアスレチックジムで10人くらいがたむろして喫煙中。遠くから見下ろしていたところ、そのうち、どこかに消えて行きました。そのあと、同じ年代の中学生が「こんにちわ!」とあいさつしていきます。
 将来を不安視していたところで、爽快な気持ちになりました。どこでどのようにして人は変わるのでしょう?

 最近、子ども手当を満額支給せず、待機児童をゼロにするために保育所を充実させる案が浮上しています。しかし、これは見かけの政策にしか映りません。国として子育てをだれがするのが一番いいのか、よくわかっていない人の考えだと思います。
 なぜかと言うと、目に余る青少年の非行は、家庭の崩壊があると考えるからです。今日みた子どもたちにも親はいます。知ってか知らずか、タバコを公衆の面前で堂々と吸うのを、注意できない親がいる限り、非行・犯罪はなくなりません。

 待機児童ゼロは見た目にはよく映りますが、要は「女に働け!」と言っているようなものです。母子家庭なら、暮らせる分の最低補償をするべきです。子ども手当の額が増えてもいいと思います。両親がいる家庭なら、不足分を支給したらいいと思います。大金持ちはいらないでしょう。

 なんでも一律というのは問題です。政治家はタバコや焼酎など、庶民の安価な嗜好品にすぐ税金を掛けます。消費税も同類です。これは簡単でかつ、反対しにくいやり方です。短絡的で安易な政策としか言えません。もっと、将来どうあるべきかしっかり考えて政策を実行すべきです。

 「三つ子の魂百まで」です。生まれて一定の期間、子どもは母親と暮らすのが一番です。その間の補償は国の義務だと思います。他人に預けて育てるのではなく、自分の手で育てるべきです。
 打算的になれば、手のいる子育てはしたくない、しかし、それでは正常な人の循環は出来ません。将来を担う子どもたちがいないと、この国はなんの力を講じなくても自ら崩壊します。老人を介護するのも、経済を活性化するのも、基本は次世代が存在するのが最低条件です。子育てを簡単に考えるのは大間違いです。しかも、他人に預けておいて「子育てした」と豪語する人(政治家)もいます。自らチャンと育ててモノを言うべきです。

 マスコミや自民党は現金支給をバラマキと吹聴してしていますが、そんなことはありません。民主党も、良い政策かもしれませんが、もっとキメの細かい手当策を講じるべきでしょう。

 女の人たちも、保育所の充実で安心してはいけません。ますます、自分自身が窮屈になるだけです。子どもを産んだら、しばらくは子育てに没頭して下さい。そのようになれる社会を私は望んでいます。
posted by 塾長 at 20:26| 教育・子育て