少子化は国難とばかり、児童手当や医療費や学費の補助などが語られていますが、果たしてどうでしょうか?
もともと国策で出産数や育児方針を決めるのは、おかしな話だと思います。
地球規模の環境キャパシティ(許容)で考えるなら、日本は7,000万人前後だと聞いたことがあります。急激な少子化が問題であって、徐々に人口が適正規模になることは結構なことだと思います。
ではなぜ我が家には10人の子どもがいるかということですが、私の場合は急激な人口減少に向かいつつあったことが根底にありました。
そこで単刀直入に言えば、「日本人を増やしたい!」と願っていたからです。現在の日本社会が素晴らしいとは一概に言えませんが、50歳の誕生日に決断して熊本県人吉市の矢岳町に移住したことで決意をさらに強くしました。里山にはまだ日本人の心が残っていたからです。
長い歴史を持つ日本には伝統的なしきたりや祭り、ことわざなどが残っています。大きな神社はなくても小さな氏神を祀った神社は8万社を超します。日本人は無宗教といわれますが、約半分は神道(しんとう)と言われます。だから正月には初詣に行きます。
日本国じゅうには八百万(やおよろず)の神様が鎮座されています。山にも土にも水にも火にも神様が宿るとされる日本では悪いことができません。だから治安の良さを確保できていると考えています。
ところが最近は西洋化の波が押し寄せてきて合理的な生活のなかで、快適・快感に喜びを求める傾向にあります。だから犯罪が増えたと考えています。
周りから10人の子どもを持つのは「無計画」などと言われたこともありますが、残念ながらものすごく「計画的」な結果です。(授かりにも感謝)そしてまた「それなりに」子どもたちは日本人として育っています。
沖縄で車を運転すると鉄筋コンクリートばかりの家ばかり目につくので、息苦しく感じるときがあります。だからと言って本土の町なかが落ち着くかと言えばそうでもありません。なぜかというと、マッチ箱のような住宅メーカーが作った家も似たようなものだからです。
せっかく世界一の木造建築技術があるのにもったいない話です。私は細々ながら日本の伝統技術を継承して、その内部にある「日本人の感性」や「日本の文化」をのこしていきたいと思っています。
先妻との子が3人、現在の妻との子が10人なので13人の子を育てつつあります。(このうち18歳以上に育った子どもは現在6人)私は満71歳ですが一番下の子どもはまだ4歳です。この子が18歳になるまで楽しく元気に働こうと考えています。
最近の住宅関連の完成写真などをみると「ホテルのような部屋」を望んでいる人が増えたように感じます。外(自然)と完全に遮断され、よく片付いた部屋に子どもが2人・・・なんとも寂しい風景です。もっと生活感のあるような空間が欲しいものです。
少子化対策はお金ではない、と思います。長年子育てをしていると分かります。
確かに今は昔より子育てにお金がかかります。昔は破れた洋服を着ている子がたくさんいました。
洋服以外でも授業料以外の校納金などにお金が必要です。確かに補助があれば助かります。
しかし決定的な解決策とは言えません。(貧乏人の子沢山)最も大事なのは、親が日本が好きかどうか、だろうと思います。
礼儀正しく、勤勉で譲り合いの精神をもつ日本人が増えれば、争いごとも減ると思います。
「日本的な人格形成」を子育ての目標にして、今日も悔いのない暮らしをしていきます!
【「敬礼」!。我が家では日常的に使います。】
【「シュワッチ!」は「分かりました!」の表現か?4歳の心然がウルトラマンが好きなため家族中が影響を受けています。「こだまこ」9歳の誕生日に「シュワッチ!」。】
【中2の「こはづき」たちが北中城村の姉妹町村の訪問団として先日、岩手県葛巻町(くずまきちょう)に行きました。今日届いた村の広報誌(3月号)に掲載されていたので転載します。】
2023年02月27日
「日本的な人格形成」が子育ての目標!
posted by 塾長 at 06:03| 教育・子育て
2023年02月07日
故 東大森裕子様 謹んで哀悼の意を表します。
昨日15時32分、熊本の女性建築家、「東大森裕子(ひがしおおもり ひろこ)さんが亡くなられた。」と一報が入りました。
本人との連絡が昨年末から取れず、ずっと心配していました。熊本の設計仲間の友人に尋ねると、さらにもっと親しいご友人に聞いてみたらしくその結果、「用があるときはこちらからするので、しばらくそっとしておいて・・・」ということだったので、「きっと何かご事情があるのだろう、とりあえず元気なら待ってみよう。」と考え、心配はしながらこの3カ月ほどを過ごしました。
そして昨日の訃報。ショックでした。
心の整理がつかないまま、インフルエンザで休んでいた家内と情報を共有しました。お話によると死因はガンで、あちらこちらに転移して最後は多臓器不全に陥ったと聞きました。その前に転倒による骨折をされていて体も弱っていたのではないかと思われます。
私よりひとつ下で満71歳だったと思います。早すぎる人生です。最後にお会いしたのは2018年12月、建築学会の奄美大島での大会後、沖縄に来られた時です。自宅を案内した後、嘉手納基地内を子どもたちの合気道の師匠であるグランダー・ケン先生に案内してもらい、私も同行しました。自宅近くの国指定文化財の中村家も12代当主の中村さんに案内してもらいました。
【2018年12月16日。奄美大島経由で沖縄入り。初めて自宅訪問。学習棟で「宙に浮く心柱(実物)」と「宙に浮く心柱の模型」を見学。】
【第八子「こだまこ」と第九子「わかみこ」とすぐに仲良しに・・・。右端が東大森さん。】
【せっかくなので在沖米軍嘉手納基地内を子どもたちが習っている合気道のケン先生に案内していただいた。詳細は当日のブログにあります。】
【国指定文化財・中村家住宅を当代に説明していただきました。沖縄で最も古い住宅。】
【どなたが見えても子どもたちが歌を歌って歓迎します。大喜びで合掌を聞く東大森裕子さん(右端)でした。子どもを見る優しい視線が忘れられません。】
その前は人吉市矢岳町にある旧国鉄矢岳駅駅長官舎(国の有形文化財)を売却した後、熊本市内で昔の建築士会の友人の仲間と会うときに、仲間への連絡などを全部していただきました。おかげで久しぶりに皆様とお会いできました。
いつでもそうですが、とても世話の届く方でした。また心配りもきめ細かく、連絡が途絶えていても、クリスマスのプレゼントが今年も届いていました。毎年10人の子どもたちは毎年欠かさず届くプレゼントに感謝しています。
【2018年3月18日。熊本市役所近くにある「音楽館」。私の熊工時代の同級生が歌手兼経営をしている店です。ここでも東大森さんは子どもたちへの飲食に気を使ってくれました。初めてお会いされる方もいたので私がそそれぞれの方々を紹介し、その後ご本人から自己紹介してもらいました。元気だった東大森さんが垣間見えます。】
【この時は先妻との子・長男も来てくれました。】
【和やかなムードで進んだ「旧友との再会」。いっぱいお世話をかけてしまいました。こんなことが体に響いたのではないかと気になるところです。】
東大森さんと最初お会いしたのは私が30代半ばのころだと思います。熊本県建築士会の青年部会で相談委員会に属し(のちに委員長)、地元日刊紙で「暮らしのけいざい」というコラムを4人輪番で月一回連載した頃です。私も東大森さんも4人のメンバーでした。彼女はそのころでは珍しい女性建築士で、いろいろなメディアに登場していたので有名人でした。
印象深かったのは、打ち合わせで当時彼女の事務所(熊本市の手取神社の参道)に行ったとき見た藤崎八幡宮秋の大祭の馬追いの時着ていた法被姿の写真。それは、それは意気が良くカッコよかったです。
当時、女性建築士は少なく、周りの目も厳しかったと思います。しかし彼女は建築士会の会議や会合でもどんな相手でも意見ははっきり言っていました。彼女にあこがれて建築士になった女性も多いかと思います。
私は事情があって熊本市を去り、再び同じ県内の人吉市矢岳町に移住した時も熊本市内から数時間かけて会いに来てくれました。再婚した妻が沖縄出身だと知って沖縄の郷土料理の「ミミ―ガー」(豚の耳の肉の千切)を持参してくれました。
その後志した「県知事選挙」に出馬する時も、一番先に寄付してくれました。「竹を割ったような性格」の方です。一方で選挙ポスターを数十枚も掲示板に張る作業もしていただきました。
今更ながら感謝申し上げます。
出身大学の長崎総合科学大学の後輩である永本さんや瀧沢さんを見送る運命になったことは、精神的に相当な打撃だったことと思います。その永本さんも矢岳の家に来てくれましたが、訃報を聞いても沖縄から駆けつけることができませんでした。母の十三年忌が今年なので、帰熊することになったら、皆さんのお墓参りをしたいと思っています。
【生前、紹介した「熊本で一番おいしいラーメン」と紹介した「新華楼」のラーメン。かつて事務所を手取本町から島崎町に移されました。そこは西山中学校(せいざんちゅうがっこう)の校区。私の中学時代の校区。熊本には珍しい透明スープであっさり型。是非食べてください!とお願いしましたが、果たして何回味われただろう?「おいしかったよ!」と聞いたような気がします。】
近年は熊本県和水町(なごみまち)三加和小中学校の設計(木造校舎)で農林大臣賞などを受賞されています。私とは設計での接点はほとんどありませんでしたが、建築士会を通した活動や友人関係としてのお付き合いに限られていました。私のブログも見ていただいていたらしく、「お月様のことは詳しいわね。読んでるよ。」とおっしゃっていただいたこともあります。
生涯独身を通された東大森さんですが、我が家の子どもたち10人にはとてもやさしく接していただきました。(家族の子どもさんにもそうですが・・)
「気丈に生きる女の印象」が強いかと思います。しかし、東大森さんの心の中には親御さんから伝授されている心の優しさや気遣いが溢れていました。
電話で心配事を相談すると、喉の手術後、出しにくくなった声を絞り出して「大丈夫よ!心配しないで!」と励ましてくれました。本当に惜しい方を亡くしてしまいました。
最後まで孤独の中で「病魔」と闘われました。東大森さんから学んだ強い意志と優しい気持ちを忘れず、残りの人生を生き抜きたいと思います。
東大森裕子さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。合掌。
故 東大森裕子様 令和5年2月1日 ご逝去。享年72歳。
あの顔の広い東大森さんが家族葬にされたというのには、さまざまなご本人、ご遺族のお考えがあるかと存じます。しかし私自身がご逝去後1週間も知らずに手を合わせることもできなかったことを思うと、誰かが静かにお伝えすることは必要かという思いで書き綴りました。ご遺族の皆様には謹んでお悔やみ申し上げます。
くれぐれもご遺族に迷惑の掛からないように、よろしくお願いたします。
本人との連絡が昨年末から取れず、ずっと心配していました。熊本の設計仲間の友人に尋ねると、さらにもっと親しいご友人に聞いてみたらしくその結果、「用があるときはこちらからするので、しばらくそっとしておいて・・・」ということだったので、「きっと何かご事情があるのだろう、とりあえず元気なら待ってみよう。」と考え、心配はしながらこの3カ月ほどを過ごしました。
そして昨日の訃報。ショックでした。
心の整理がつかないまま、インフルエンザで休んでいた家内と情報を共有しました。お話によると死因はガンで、あちらこちらに転移して最後は多臓器不全に陥ったと聞きました。その前に転倒による骨折をされていて体も弱っていたのではないかと思われます。
私よりひとつ下で満71歳だったと思います。早すぎる人生です。最後にお会いしたのは2018年12月、建築学会の奄美大島での大会後、沖縄に来られた時です。自宅を案内した後、嘉手納基地内を子どもたちの合気道の師匠であるグランダー・ケン先生に案内してもらい、私も同行しました。自宅近くの国指定文化財の中村家も12代当主の中村さんに案内してもらいました。
【2018年12月16日。奄美大島経由で沖縄入り。初めて自宅訪問。学習棟で「宙に浮く心柱(実物)」と「宙に浮く心柱の模型」を見学。】
【第八子「こだまこ」と第九子「わかみこ」とすぐに仲良しに・・・。右端が東大森さん。】
【せっかくなので在沖米軍嘉手納基地内を子どもたちが習っている合気道のケン先生に案内していただいた。詳細は当日のブログにあります。】
【国指定文化財・中村家住宅を当代に説明していただきました。沖縄で最も古い住宅。】
【どなたが見えても子どもたちが歌を歌って歓迎します。大喜びで合掌を聞く東大森裕子さん(右端)でした。子どもを見る優しい視線が忘れられません。】
その前は人吉市矢岳町にある旧国鉄矢岳駅駅長官舎(国の有形文化財)を売却した後、熊本市内で昔の建築士会の友人の仲間と会うときに、仲間への連絡などを全部していただきました。おかげで久しぶりに皆様とお会いできました。
いつでもそうですが、とても世話の届く方でした。また心配りもきめ細かく、連絡が途絶えていても、クリスマスのプレゼントが今年も届いていました。毎年10人の子どもたちは毎年欠かさず届くプレゼントに感謝しています。
【2018年3月18日。熊本市役所近くにある「音楽館」。私の熊工時代の同級生が歌手兼経営をしている店です。ここでも東大森さんは子どもたちへの飲食に気を使ってくれました。初めてお会いされる方もいたので私がそそれぞれの方々を紹介し、その後ご本人から自己紹介してもらいました。元気だった東大森さんが垣間見えます。】
【この時は先妻との子・長男も来てくれました。】
【和やかなムードで進んだ「旧友との再会」。いっぱいお世話をかけてしまいました。こんなことが体に響いたのではないかと気になるところです。】
東大森さんと最初お会いしたのは私が30代半ばのころだと思います。熊本県建築士会の青年部会で相談委員会に属し(のちに委員長)、地元日刊紙で「暮らしのけいざい」というコラムを4人輪番で月一回連載した頃です。私も東大森さんも4人のメンバーでした。彼女はそのころでは珍しい女性建築士で、いろいろなメディアに登場していたので有名人でした。
印象深かったのは、打ち合わせで当時彼女の事務所(熊本市の手取神社の参道)に行ったとき見た藤崎八幡宮秋の大祭の馬追いの時着ていた法被姿の写真。それは、それは意気が良くカッコよかったです。
当時、女性建築士は少なく、周りの目も厳しかったと思います。しかし彼女は建築士会の会議や会合でもどんな相手でも意見ははっきり言っていました。彼女にあこがれて建築士になった女性も多いかと思います。
私は事情があって熊本市を去り、再び同じ県内の人吉市矢岳町に移住した時も熊本市内から数時間かけて会いに来てくれました。再婚した妻が沖縄出身だと知って沖縄の郷土料理の「ミミ―ガー」(豚の耳の肉の千切)を持参してくれました。
その後志した「県知事選挙」に出馬する時も、一番先に寄付してくれました。「竹を割ったような性格」の方です。一方で選挙ポスターを数十枚も掲示板に張る作業もしていただきました。
今更ながら感謝申し上げます。
出身大学の長崎総合科学大学の後輩である永本さんや瀧沢さんを見送る運命になったことは、精神的に相当な打撃だったことと思います。その永本さんも矢岳の家に来てくれましたが、訃報を聞いても沖縄から駆けつけることができませんでした。母の十三年忌が今年なので、帰熊することになったら、皆さんのお墓参りをしたいと思っています。
【生前、紹介した「熊本で一番おいしいラーメン」と紹介した「新華楼」のラーメン。かつて事務所を手取本町から島崎町に移されました。そこは西山中学校(せいざんちゅうがっこう)の校区。私の中学時代の校区。熊本には珍しい透明スープであっさり型。是非食べてください!とお願いしましたが、果たして何回味われただろう?「おいしかったよ!」と聞いたような気がします。】
近年は熊本県和水町(なごみまち)三加和小中学校の設計(木造校舎)で農林大臣賞などを受賞されています。私とは設計での接点はほとんどありませんでしたが、建築士会を通した活動や友人関係としてのお付き合いに限られていました。私のブログも見ていただいていたらしく、「お月様のことは詳しいわね。読んでるよ。」とおっしゃっていただいたこともあります。
生涯独身を通された東大森さんですが、我が家の子どもたち10人にはとてもやさしく接していただきました。(家族の子どもさんにもそうですが・・)
「気丈に生きる女の印象」が強いかと思います。しかし、東大森さんの心の中には親御さんから伝授されている心の優しさや気遣いが溢れていました。
電話で心配事を相談すると、喉の手術後、出しにくくなった声を絞り出して「大丈夫よ!心配しないで!」と励ましてくれました。本当に惜しい方を亡くしてしまいました。
最後まで孤独の中で「病魔」と闘われました。東大森さんから学んだ強い意志と優しい気持ちを忘れず、残りの人生を生き抜きたいと思います。
東大森裕子さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。合掌。
故 東大森裕子様 令和5年2月1日 ご逝去。享年72歳。
あの顔の広い東大森さんが家族葬にされたというのには、さまざまなご本人、ご遺族のお考えがあるかと存じます。しかし私自身がご逝去後1週間も知らずに手を合わせることもできなかったことを思うと、誰かが静かにお伝えすることは必要かという思いで書き綴りました。ご遺族の皆様には謹んでお悔やみ申し上げます。
くれぐれもご遺族に迷惑の掛からないように、よろしくお願いたします。
posted by 塾長 at 17:28| 教育・子育て
2023年02月02日
帰ってきた「ムック」!
普段は午前6時ころから道路掃除や除草活動のため、裏山の牧場まで散歩に出かけます。1月22日(日)午前中、みんなに少し遅れて外に出たら犬小屋にいたムック(番犬)がいました。チェーンが絡まっていたので解いてあげようとしたとき、首輪の金具がチェーンから外れてムックは走り去りました。
たまにこう言うこともありますが、必ず小屋に帰ってきていました。ただこの日は帰ってきませんでした。他人に危害が及ばないか心配になって、沖縄県動物愛護管理センターに写真を付けて「迷い犬」の登録をしました。
愛護センターのHPには翌23日にアップされました。人懐っこいので誰かが預かっているのかもしれないと思ってHPを毎日検索しましたが、掲載はありませんでした。
それから毎日、近所や行きそうなところを探しましたが見つかりません。行方不明になって5日目の1月28日、愛護センターのHPをよく見たら「保護」されている犬の項目がありました。これまで一般の人が預かってくれているところしか見ていませんでした。
「いました!」組み写真で3枚。間違いないかどうか家族にも照会したら「間違いなし」。どれほどうれしかったか!我が家で生まれた番犬です。もう8年ほどになります。とてもお利口で、「待て」、「お座り」、「お手」、「お代わり」ができて、目の前にエサがあっても「よし」をいうまで食べない犬です。(ほかの犬も一緒ですが・・・)
HPでは31日まで預かりとありました。28日は土曜日で愛護センターは警備員さんしかいませんでした。「確認にいきたい」とお願いしましたがダメでした。月曜日、センターに連絡して迎えに行きました。預かり限度の1日前でした。
センターでは数か所の檻(おり)に、たくさん保護された犬がいました。「ワン、ワン」と吠えました。しかし、奥の檻にいたムックは「キューン、キューン」と私を呼んでいるような声でした。
小さな檻に入れ替えられて出てきました。「念のため」と思い、「お座り」、「お手」、「お代わり」をさせると、チャンとできました。担当の方に「少しやせた感じがしたので確認しました。間違いなく我が家の飼い犬です。ありがとうございました。」といって引き取らせtいただきました。
【小さな檻の入れ替えられて出てきた「ムック」。走り寄る4歳の「心然(しんねん)」。】
「ガス室に行かずに良かった!ギリギリセーフで命が助かった!」家族も大喜びでした。しかし一方で迎えが来ない犬もたくさんいたので気がかりでした。
それにしても同じ動物愛護センターのHPに「迷い犬」と「保護」の項目に同時掲載されていたとは・・。またそのことに私もセンターも気付かないとは・・。
「このようなミスマッチがないようにしましょう。」とセンターにはお願いしました。
【いつもの散歩道に満足の様子の「ムック」。】
飼い主の責任の重さを痛感しました。獣医からいろいろ説明がありましたが、言葉の端々に「管理」が出てきました。我が家には家族同様の番犬が5匹いますが、あまりにも「管理」「管理」と言われて、違和感を覚えました。「犬」を「モノ」扱いしているように感じました。今の日本の人間中心の社会を垣間見たように思いました。
たまにこう言うこともありますが、必ず小屋に帰ってきていました。ただこの日は帰ってきませんでした。他人に危害が及ばないか心配になって、沖縄県動物愛護管理センターに写真を付けて「迷い犬」の登録をしました。
愛護センターのHPには翌23日にアップされました。人懐っこいので誰かが預かっているのかもしれないと思ってHPを毎日検索しましたが、掲載はありませんでした。
それから毎日、近所や行きそうなところを探しましたが見つかりません。行方不明になって5日目の1月28日、愛護センターのHPをよく見たら「保護」されている犬の項目がありました。これまで一般の人が預かってくれているところしか見ていませんでした。
「いました!」組み写真で3枚。間違いないかどうか家族にも照会したら「間違いなし」。どれほどうれしかったか!我が家で生まれた番犬です。もう8年ほどになります。とてもお利口で、「待て」、「お座り」、「お手」、「お代わり」ができて、目の前にエサがあっても「よし」をいうまで食べない犬です。(ほかの犬も一緒ですが・・・)
HPでは31日まで預かりとありました。28日は土曜日で愛護センターは警備員さんしかいませんでした。「確認にいきたい」とお願いしましたがダメでした。月曜日、センターに連絡して迎えに行きました。預かり限度の1日前でした。
センターでは数か所の檻(おり)に、たくさん保護された犬がいました。「ワン、ワン」と吠えました。しかし、奥の檻にいたムックは「キューン、キューン」と私を呼んでいるような声でした。
小さな檻に入れ替えられて出てきました。「念のため」と思い、「お座り」、「お手」、「お代わり」をさせると、チャンとできました。担当の方に「少しやせた感じがしたので確認しました。間違いなく我が家の飼い犬です。ありがとうございました。」といって引き取らせtいただきました。
【小さな檻の入れ替えられて出てきた「ムック」。走り寄る4歳の「心然(しんねん)」。】
「ガス室に行かずに良かった!ギリギリセーフで命が助かった!」家族も大喜びでした。しかし一方で迎えが来ない犬もたくさんいたので気がかりでした。
それにしても同じ動物愛護センターのHPに「迷い犬」と「保護」の項目に同時掲載されていたとは・・。またそのことに私もセンターも気付かないとは・・。
「このようなミスマッチがないようにしましょう。」とセンターにはお願いしました。
【いつもの散歩道に満足の様子の「ムック」。】
飼い主の責任の重さを痛感しました。獣医からいろいろ説明がありましたが、言葉の端々に「管理」が出てきました。我が家には家族同様の番犬が5匹いますが、あまりにも「管理」「管理」と言われて、違和感を覚えました。「犬」を「モノ」扱いしているように感じました。今の日本の人間中心の社会を垣間見たように思いました。
posted by 塾長 at 12:10| 教育・子育て
2023年01月25日
今の日本の処世術
最近の事件は親子の殺し合いや親や子への虐待が目につきます。また、障がい者や高齢者、乳幼児など社会弱者と言われる人たちが犠牲になる事件・事故や、警察官、教師、医師などが起こす事件も後を絶ちません。
一体どうなってしまったのでしょう?
これまでは「「自然」との接触不足や自然破壊が命の軽視に結び付いているのではないかと思い、自然を排除しない教育を林間学校など通して活動してきました。
しかし、どうもそこだけではないように気がしていました。そしてたどりついたのが「日本人の心」の喪失です。
明治以降、欧米文化の移入が著しく、特に大東亜戦争で連合国に負けた日本は戦勝国・アメリカの影響が強く、GHQの日本弱体化政策にまんまと引っ掛かって、3S(スポーツ、スクリーン:映画・TV、SEX・風俗)に没頭したため、戦後は「1億総白雉(はくち)化」時代と呼ばれ、自己中心、人間中心の社会になりました。
(おいしさだけを強調する料理やバラエティーなど低俗な番組が多いため、我が家には20年前からTVはありません)
「平和ボケ」と言われるほど危機管理能力は地に落ち、お金持ちが偉い!という浅ましい価値観が横行しています。
しかし、日本人のDNAは生きていました。特に地方には「地方(じかた)文化」と呼ばれる地方独自の日本文化が「祭り」をはじめ、「年中行事」などで復活しています。
西暦より660年も長い歴史を持つ日本の「皇紀」は世界最長級で現在は「令和」の5年です。皇紀でいえば「2683年」です。
お隣の中国は長い歴史の国と思われがちですが、「中華人民共和国」としてはまだ今年の10月が来て建国以来74年の歴史しかありません。
日本は建国以来、「日本」という国名は変わりません。中国は王朝が滅びればまた新しい王朝が制覇するという歴史を繰り返しています。他の国も似たり寄ったりです。
長い歴史を持つ日本には、「伝統」と呼ばれる「文化」が育ちました。それは大それた話ではありません。我が家の子どもの育て方は「返事、挨拶、正座」が基本です。これらは長い歴史を持つ日本の文化の一端です。
日本人は礼儀正しく勤勉というのは外国からの評価ですが、災害があっても暴動が起こらない、バス停では並んで待つなど、日本は治安が良く、秩序が保たれています。
それは長い歴史の中で戒めや励まし、他への感謝を口伝として格言やことわざで残されているからでしょう。全国に8万を超える神社(5万5千ほどのコンビニの数より多い)は「五穀豊穣」や「家内安全」などを祈願するところですが、法律以前に「人の道」を外さないように、心を「無」にする聖地でもあります。なにせ日本には「八百万(やおよろず)」の神様がおわす、とされます。
つまり、日本人は初詣や初日の出から晦日(みそか)の茅(ち)の輪くぐり、大晦日)おおみそか)の除夜の鐘まで神社・仏閣でお参りします。近くの水神さんやお地蔵さんに至るまで、日本人はその時々に心を清め、近くの神様に手を合わせます。
残念ながら「祭り」が花火大会や音楽、スポーツに興じる所もあるようです。「祭り」は非日常的ですが、日常の「家庭」では「仏壇」や「神棚」がその役割をします。
我が家の仏壇には私の父と母(父は15年前50年忌、母は今年13年忌)、先祖の位牌もあります。子どもたちは通知表や表彰状をもらったら一番に上げます。昨日は母親の月命日でした。月命日には毎月「だんご汁」(熊本の郷土料理)を作って上げます。学校に行き帰りにはお地蔵さんに手を合わせます。
戦後の「成金(なりきん)主義」や「自己中心主義」がもたらす社会は、犯罪の温床ばかりか世界の不安定にも繋がり兼ねません。
身近なところでも「日本人の心」を取り戻すことができます。DNA(遺伝子)は1,000年掛かって確立すると言われています。日本人の「心」は形には見えませんが、まだまだ大丈夫です。
【朝から草食動物たちへのエサになる草を刈ります。「運び屋」は第10子の心然(しんねん)。お手伝いも重要な子ども時代の仕事。この経験がきっと人生のどこかで生きてくると思います。】
長い歴史を持つ日本には俳句や短歌をはじめ、華道や茶道、柔道や合気道、大相撲などがあります。温暖な気候の中にも変化のある四季もあります。今仕事している伝統建築もそのひとつです。
部活やプロでも勝てば良し!という風潮が圧倒的だから問題が発生します。スポーツは教育の一環であり、人間性を高める手段のひとつと考えています。大相撲は神事の一環でもあり、武道の合気道はスポーツではありません。そもそも「試合」がありません。護身術ですが、相手に怪我をさせない技も秘めています。
【今日も次女は現場で反りのある玄関の破風板に彫刻を入れていました。木造なので火事に遭わないために「水」をイメージしています。自由闊達(かったつ)に手作りの技術を進んで施しています。「木」は「生きもの」です。】
「モノ」にも「命」が宿る、つまり「モノ」も「生きもの」として捉える日本人的感覚、「森羅万象(しんらばんしょう・見えるもの見えないもの、宇宙まで)神々宿る」という日本的な考え方・捉え方に近づけば、争いごとも少しは減り、謙虚で寛容な日本人の心が取り戻せるのではないかと思っています。
一体どうなってしまったのでしょう?
これまでは「「自然」との接触不足や自然破壊が命の軽視に結び付いているのではないかと思い、自然を排除しない教育を林間学校など通して活動してきました。
しかし、どうもそこだけではないように気がしていました。そしてたどりついたのが「日本人の心」の喪失です。
明治以降、欧米文化の移入が著しく、特に大東亜戦争で連合国に負けた日本は戦勝国・アメリカの影響が強く、GHQの日本弱体化政策にまんまと引っ掛かって、3S(スポーツ、スクリーン:映画・TV、SEX・風俗)に没頭したため、戦後は「1億総白雉(はくち)化」時代と呼ばれ、自己中心、人間中心の社会になりました。
(おいしさだけを強調する料理やバラエティーなど低俗な番組が多いため、我が家には20年前からTVはありません)
「平和ボケ」と言われるほど危機管理能力は地に落ち、お金持ちが偉い!という浅ましい価値観が横行しています。
しかし、日本人のDNAは生きていました。特に地方には「地方(じかた)文化」と呼ばれる地方独自の日本文化が「祭り」をはじめ、「年中行事」などで復活しています。
西暦より660年も長い歴史を持つ日本の「皇紀」は世界最長級で現在は「令和」の5年です。皇紀でいえば「2683年」です。
お隣の中国は長い歴史の国と思われがちですが、「中華人民共和国」としてはまだ今年の10月が来て建国以来74年の歴史しかありません。
日本は建国以来、「日本」という国名は変わりません。中国は王朝が滅びればまた新しい王朝が制覇するという歴史を繰り返しています。他の国も似たり寄ったりです。
長い歴史を持つ日本には、「伝統」と呼ばれる「文化」が育ちました。それは大それた話ではありません。我が家の子どもの育て方は「返事、挨拶、正座」が基本です。これらは長い歴史を持つ日本の文化の一端です。
日本人は礼儀正しく勤勉というのは外国からの評価ですが、災害があっても暴動が起こらない、バス停では並んで待つなど、日本は治安が良く、秩序が保たれています。
それは長い歴史の中で戒めや励まし、他への感謝を口伝として格言やことわざで残されているからでしょう。全国に8万を超える神社(5万5千ほどのコンビニの数より多い)は「五穀豊穣」や「家内安全」などを祈願するところですが、法律以前に「人の道」を外さないように、心を「無」にする聖地でもあります。なにせ日本には「八百万(やおよろず)」の神様がおわす、とされます。
つまり、日本人は初詣や初日の出から晦日(みそか)の茅(ち)の輪くぐり、大晦日)おおみそか)の除夜の鐘まで神社・仏閣でお参りします。近くの水神さんやお地蔵さんに至るまで、日本人はその時々に心を清め、近くの神様に手を合わせます。
残念ながら「祭り」が花火大会や音楽、スポーツに興じる所もあるようです。「祭り」は非日常的ですが、日常の「家庭」では「仏壇」や「神棚」がその役割をします。
我が家の仏壇には私の父と母(父は15年前50年忌、母は今年13年忌)、先祖の位牌もあります。子どもたちは通知表や表彰状をもらったら一番に上げます。昨日は母親の月命日でした。月命日には毎月「だんご汁」(熊本の郷土料理)を作って上げます。学校に行き帰りにはお地蔵さんに手を合わせます。
戦後の「成金(なりきん)主義」や「自己中心主義」がもたらす社会は、犯罪の温床ばかりか世界の不安定にも繋がり兼ねません。
身近なところでも「日本人の心」を取り戻すことができます。DNA(遺伝子)は1,000年掛かって確立すると言われています。日本人の「心」は形には見えませんが、まだまだ大丈夫です。
【朝から草食動物たちへのエサになる草を刈ります。「運び屋」は第10子の心然(しんねん)。お手伝いも重要な子ども時代の仕事。この経験がきっと人生のどこかで生きてくると思います。】
長い歴史を持つ日本には俳句や短歌をはじめ、華道や茶道、柔道や合気道、大相撲などがあります。温暖な気候の中にも変化のある四季もあります。今仕事している伝統建築もそのひとつです。
部活やプロでも勝てば良し!という風潮が圧倒的だから問題が発生します。スポーツは教育の一環であり、人間性を高める手段のひとつと考えています。大相撲は神事の一環でもあり、武道の合気道はスポーツではありません。そもそも「試合」がありません。護身術ですが、相手に怪我をさせない技も秘めています。
【今日も次女は現場で反りのある玄関の破風板に彫刻を入れていました。木造なので火事に遭わないために「水」をイメージしています。自由闊達(かったつ)に手作りの技術を進んで施しています。「木」は「生きもの」です。】
「モノ」にも「命」が宿る、つまり「モノ」も「生きもの」として捉える日本人的感覚、「森羅万象(しんらばんしょう・見えるもの見えないもの、宇宙まで)神々宿る」という日本的な考え方・捉え方に近づけば、争いごとも少しは減り、謙虚で寛容な日本人の心が取り戻せるのではないかと思っています。
posted by 塾長 at 19:12| 教育・子育て
2023年01月19日
家族で泣いた十三祝い!
1月18日(水)は第7子(三男)の万然(ばんねん)の「十三祝い」が通っている泡瀬特別支援学校の体育館で開催されました。
当日は平日なので他の家族は学校や職場に行くので、休みを取った家内と私が参加しました。これまで6人の十三祝いとは全く異なる感動を受けました。
参加できなかった家族のために写真とカメラに納めた動画を自宅のパソコンに移動し、みんなで観ました。途中から10人の家族は全員涙を流し始めました。目を真っ赤にして4歳の心然(しんねん)も泣いていました。
【会場に張られていた「十三祝い」の手作り看板】
【万然がもらってきた当日のプログラム。「あれれ、「終わりの言葉」に万然の名前がある?話すことはできないのに万然なのに・・」と思いつつもその時を待ちました。】
事前に練習した余興のビデオや過去お世話になった先生たちからのメッセージもスクリーンに流されました。
「生い立ちのスライドショー」では子どもたちそれぞれの13年間の流れがスライドショーで紹介されました。
家族に事前に2枚ほど支援学校に通う以前の写真の提供をお願いされていたので、私たちも送りました。その写真を含めて学校での授業や活動を取り入れて紹介されました。
【万然の小さい頃の写真は熱発する前の日の夜の熊本での写真と、脳性麻痺になった後、自然から受ける刺激を機能改善に効果があると考え。毎朝裏山の道路清掃への行き帰りに湧水地へ立ち寄り、水の温かさや冷たさや、流れる水音、鳥のさえずりなどを感じるよう家内が坂道をおんぶしてしている写真にしました。きっと万然は母親の背中の温かさが一番うれしかったのだろうと思います。】
そしてその後、「ウサギ年」の同級生10人の家族からそれぞれの子どもたちにお祝いの言葉が贈られました。家内が万然を前にしてお祝いの言葉を話す映像を見て、家族全員がすすり泣きを始めました。
11年前の8月の暑い盛り、自宅出産で生まれた万然はこれまでの出産では一番きれいに、かつ、無理なく生まれてきたこと、熊本から帰ってきた夜、急な高熱で中部病院に救急車で運ばれたこと、そのあとまた南部こども医療センターに救急車で運ばれたこと、そして沖縄県で当時ひとつしかなかったPICU(子ども集中管理室)の無菌室に入って直接抱くこともできなかったこと、72時間生死をさまよい最後に脳性麻痺を医師から宣告されたこと、その後、学校へ通うようになり、先生方のおかげで少しずつ反応できるようになり、体も大きくなったことなどを、切々と話しました。
目が見なくなり言葉も出ず、四肢も不自由になりけいれんが頻発していますが、「これからもずっと一緒に頑張ろうね。ありがとう。」とお祝いと感謝の言葉を掛けました。
【隣で聞いている自分も時々止まりかけながら語る妻の言葉に、思い起こすことも多く、マスクで涙を拭きながら聞きました。か細くなりながらも、万然への思いを一生懸命語っていました。】
【お祝いの言葉を終えると用意されていたお花を万然に渡しました。きっと万然も分かってくれたと信じています。】
【先生方が準備してくれた「くす玉」が割れて、中から「ありがとう」と書かれた紙看板と紙吹雪が出てきました。こんな演出をしていただいた先生方に感謝です。】
【そして一番気になる「終わりの言葉」。万然が名指されていました。心配で心配でなりませんでした。しゃべることなどできないのに、ありがたいけど無茶があると思っていました。しかし、担任の安次富先生が万然の横に来られて「それでは「ウサギ年」の十三祝いを・・・」と言われると万然にマイクを当てられました。するとこれまで一度も言葉を発したことがない万然の口から「お・わ・り・ま・す」と言ったように聞こえました。これを聞いて会場の人たちから大拍手が起こりました。】
これまで十三祝いでは味わったことのない感動を覚えました。
「お祝いの言葉」では他の9人の家族からそれぞれ脳性麻痺になった経緯やこれまでの暮らしぶりを聞くことができました。わずか2枚のメッセージでしたが、出産時に障がいをもった子や万然のように後天的に障がいをなった子がいました。
どなたも「まさかわが子が・・」の絶望的な気持ちを一度は持たれていたようでした。中にはのどを止む無く切って「もうこれからあなたの声が聞けなくなる」と覚悟した親や生体肝移植をされた子もいました。
それでもみんな一生懸命生きて、症状が多少軽くなった子もいるし、変わらない子もいます。発表はしないけれど悪くなっている子もいるはずです。
絶望の中から小さな明かりを見つけ、障がいを持つ子どもたちから励まされて生きている親がそこにいました。東京から越してきた人は言いました。「東京にいたら「十三祝い」という行事はなかった。沖縄に来てよかったね。」と。
我が家では「万然」は「宝」です。
「ありがとう」という子どもたちにこちら側から「ありがとう」と心で返しました。「おめでとう、ありがとう、万然とお友達!」
当日は平日なので他の家族は学校や職場に行くので、休みを取った家内と私が参加しました。これまで6人の十三祝いとは全く異なる感動を受けました。
参加できなかった家族のために写真とカメラに納めた動画を自宅のパソコンに移動し、みんなで観ました。途中から10人の家族は全員涙を流し始めました。目を真っ赤にして4歳の心然(しんねん)も泣いていました。
【会場に張られていた「十三祝い」の手作り看板】
【万然がもらってきた当日のプログラム。「あれれ、「終わりの言葉」に万然の名前がある?話すことはできないのに万然なのに・・」と思いつつもその時を待ちました。】
事前に練習した余興のビデオや過去お世話になった先生たちからのメッセージもスクリーンに流されました。
「生い立ちのスライドショー」では子どもたちそれぞれの13年間の流れがスライドショーで紹介されました。
家族に事前に2枚ほど支援学校に通う以前の写真の提供をお願いされていたので、私たちも送りました。その写真を含めて学校での授業や活動を取り入れて紹介されました。
【万然の小さい頃の写真は熱発する前の日の夜の熊本での写真と、脳性麻痺になった後、自然から受ける刺激を機能改善に効果があると考え。毎朝裏山の道路清掃への行き帰りに湧水地へ立ち寄り、水の温かさや冷たさや、流れる水音、鳥のさえずりなどを感じるよう家内が坂道をおんぶしてしている写真にしました。きっと万然は母親の背中の温かさが一番うれしかったのだろうと思います。】
そしてその後、「ウサギ年」の同級生10人の家族からそれぞれの子どもたちにお祝いの言葉が贈られました。家内が万然を前にしてお祝いの言葉を話す映像を見て、家族全員がすすり泣きを始めました。
11年前の8月の暑い盛り、自宅出産で生まれた万然はこれまでの出産では一番きれいに、かつ、無理なく生まれてきたこと、熊本から帰ってきた夜、急な高熱で中部病院に救急車で運ばれたこと、そのあとまた南部こども医療センターに救急車で運ばれたこと、そして沖縄県で当時ひとつしかなかったPICU(子ども集中管理室)の無菌室に入って直接抱くこともできなかったこと、72時間生死をさまよい最後に脳性麻痺を医師から宣告されたこと、その後、学校へ通うようになり、先生方のおかげで少しずつ反応できるようになり、体も大きくなったことなどを、切々と話しました。
目が見なくなり言葉も出ず、四肢も不自由になりけいれんが頻発していますが、「これからもずっと一緒に頑張ろうね。ありがとう。」とお祝いと感謝の言葉を掛けました。
【隣で聞いている自分も時々止まりかけながら語る妻の言葉に、思い起こすことも多く、マスクで涙を拭きながら聞きました。か細くなりながらも、万然への思いを一生懸命語っていました。】
【お祝いの言葉を終えると用意されていたお花を万然に渡しました。きっと万然も分かってくれたと信じています。】
【先生方が準備してくれた「くす玉」が割れて、中から「ありがとう」と書かれた紙看板と紙吹雪が出てきました。こんな演出をしていただいた先生方に感謝です。】
【そして一番気になる「終わりの言葉」。万然が名指されていました。心配で心配でなりませんでした。しゃべることなどできないのに、ありがたいけど無茶があると思っていました。しかし、担任の安次富先生が万然の横に来られて「それでは「ウサギ年」の十三祝いを・・・」と言われると万然にマイクを当てられました。するとこれまで一度も言葉を発したことがない万然の口から「お・わ・り・ま・す」と言ったように聞こえました。これを聞いて会場の人たちから大拍手が起こりました。】
これまで十三祝いでは味わったことのない感動を覚えました。
「お祝いの言葉」では他の9人の家族からそれぞれ脳性麻痺になった経緯やこれまでの暮らしぶりを聞くことができました。わずか2枚のメッセージでしたが、出産時に障がいをもった子や万然のように後天的に障がいをなった子がいました。
どなたも「まさかわが子が・・」の絶望的な気持ちを一度は持たれていたようでした。中にはのどを止む無く切って「もうこれからあなたの声が聞けなくなる」と覚悟した親や生体肝移植をされた子もいました。
それでもみんな一生懸命生きて、症状が多少軽くなった子もいるし、変わらない子もいます。発表はしないけれど悪くなっている子もいるはずです。
絶望の中から小さな明かりを見つけ、障がいを持つ子どもたちから励まされて生きている親がそこにいました。東京から越してきた人は言いました。「東京にいたら「十三祝い」という行事はなかった。沖縄に来てよかったね。」と。
我が家では「万然」は「宝」です。
「ありがとう」という子どもたちにこちら側から「ありがとう」と心で返しました。「おめでとう、ありがとう、万然とお友達!」
posted by 塾長 at 23:44| 教育・子育て
2023年01月17日
懸魚(げぎょ)の取付け
待ちに待った玄関小屋根の破風板付けと「懸魚(げぎょ)」取り付けができました。
大屋根は「長い反り屋根の蓑甲」や「八角形の塔屋」、「宙に浮く心柱」など大工さんに苦労掛けましたが、小屋根は玄関入り口の「顔」。入母屋の「振り隅」、そして「マス組」、「海老虹梁」、「懸魚」など、大工泣かせの難しい仕事の連続です。
昨夜も午後9時ごろまで残業をされたようです。朝からすでに建っている本体のモヤとの調整に時間がかかるだろうから10時ごろ取り付けることになりそう・・・と棟梁から聞いていましたが、現場の亜和(あや)から「もう取り付きました。」と電話連絡。
反りのある「拝み破風」が「差し(化粧)母屋」の平ほぞがぴったり入り、その直後「懸魚」と「鰭(ひれ)」があっという間に取り付いたらしい。伝統構法なので釘は使わない。
【「懸魚」と「鰭」が三位一体で反りのある破風板に取り付けられた。】
【裏から見るとこんな感じ。実によく考えられている。欅の楔を外すと全部きれいに分解される。】
【反りのある破風板。眉(まゆ)もキレイに描かれている。部材はすべて「ヒノキ」。】
【彫刻を担った亜和(あや)も感慨深げ・・。最終日はベテラン大工さんに修正してもらいました。】
葺き降ろし部分の蓑甲屋根の加工が進んでいます。今週中にはほぼ玄関小屋根の全体像が見えてきます。素屋根を外せば、瓦葺き工事が始まります。玄関小屋根の鬼瓦は「鳳凰」。慌てず落ち着いて淡々と日本の伝統木造建築を仕上げていきます。
伝統構法の大工見習の次女が気を利かせて取付状況を写真で撮っていました。以下に掲載します。
【反りのある破風板を化粧モヤに取り付け。平ホゾ差し(横ホゾ)】
【懸魚(げぎょ)と鰭(ひれ)2枚を同時に破風板にホゾを差し入れます。(各2本)】
【破風板と懸魚・鰭をしっかり繋ぎ留めるためにホゾにカンザシを差して固定します。】
【最後に六葉に樽の口を打ち込みます。】
いやー、現場に立ち会いたかったなー。「全部奇麗にまたバラシて再組み立てできるから。もう一回してもいいですよ。」と親富祖棟梁が言ってくれたが・・・まぁ、仮組みの時、組み方は見ているので、「いいですよ。」と遠慮しました。本音は「動画で撮りたかったなぁー・・・」
大屋根は「長い反り屋根の蓑甲」や「八角形の塔屋」、「宙に浮く心柱」など大工さんに苦労掛けましたが、小屋根は玄関入り口の「顔」。入母屋の「振り隅」、そして「マス組」、「海老虹梁」、「懸魚」など、大工泣かせの難しい仕事の連続です。
昨夜も午後9時ごろまで残業をされたようです。朝からすでに建っている本体のモヤとの調整に時間がかかるだろうから10時ごろ取り付けることになりそう・・・と棟梁から聞いていましたが、現場の亜和(あや)から「もう取り付きました。」と電話連絡。
反りのある「拝み破風」が「差し(化粧)母屋」の平ほぞがぴったり入り、その直後「懸魚」と「鰭(ひれ)」があっという間に取り付いたらしい。伝統構法なので釘は使わない。
【「懸魚」と「鰭」が三位一体で反りのある破風板に取り付けられた。】
【裏から見るとこんな感じ。実によく考えられている。欅の楔を外すと全部きれいに分解される。】
【反りのある破風板。眉(まゆ)もキレイに描かれている。部材はすべて「ヒノキ」。】
【彫刻を担った亜和(あや)も感慨深げ・・。最終日はベテラン大工さんに修正してもらいました。】
葺き降ろし部分の蓑甲屋根の加工が進んでいます。今週中にはほぼ玄関小屋根の全体像が見えてきます。素屋根を外せば、瓦葺き工事が始まります。玄関小屋根の鬼瓦は「鳳凰」。慌てず落ち着いて淡々と日本の伝統木造建築を仕上げていきます。
伝統構法の大工見習の次女が気を利かせて取付状況を写真で撮っていました。以下に掲載します。
【反りのある破風板を化粧モヤに取り付け。平ホゾ差し(横ホゾ)】
【懸魚(げぎょ)と鰭(ひれ)2枚を同時に破風板にホゾを差し入れます。(各2本)】
【破風板と懸魚・鰭をしっかり繋ぎ留めるためにホゾにカンザシを差して固定します。】
【最後に六葉に樽の口を打ち込みます。】
いやー、現場に立ち会いたかったなー。「全部奇麗にまたバラシて再組み立てできるから。もう一回してもいいですよ。」と親富祖棟梁が言ってくれたが・・・まぁ、仮組みの時、組み方は見ているので、「いいですよ。」と遠慮しました。本音は「動画で撮りたかったなぁー・・・」
posted by 塾長 at 17:07| 教育・子育て
2023年01月16日
前を向いて行こう!
隣国・中国がゼロコロナ政策から一変して、緩和政策に転換しました。しかも21日からの春節を控えています。外国への渡航条件を掛けないため日本は当然、水際作戦としてPCR検査や陰性証明の表示を求めたわけですが、それを民族差別といって中国へのビザを発給しないというのですから、身勝手もいいところです。
3年前の武漢発のコロナ感染のときも、内部告発があったにもかかわらず隠ぺいして春節時に出国を野放しにした結果、世界にウイルスが広がりました。
WHOは当時調査員を派遣しましたが、なしのつぶて。さすがに今回は政策転換で爆発的に増えた9億人と言われる中国国内の感染者数が不透明なため正式な数字を出してほしいと言っているようですが、あの国ですから無理でしょう。
ロシアのウクライナ侵攻や爆発的な中国のコロナ感染、北朝鮮の核・ミサイルなどに対して「国連」は何もできないのだな,と実感しています。第二次世界大戦の戦勝国がいまだに常任理事国で拒否権を乱用している状況なので、世界の秩序が守られるはずがありません。日本は非常任理事国ではありますが、最多の12回選出されていて、特に今月は議長国。国連改革を他国に働きかけて、常任理事国を増やすことや常任理事国を選挙で決めること、戦争を始めるような国は常任理事国から外すようなことなどを進めて欲しいと思います。
さて身近なところでは、次女・亜和(あや)が無事、北中城村の「はたちの集い」での挨拶や実行委員会の活動を終えました。
【1月8日はそのようすがリアルタイムで配信されました。その映像を千葉の長女が撮ってくれていました。「私の夢」を発表する亜和。「伝統建築の大工棟梁になって、日本文化を継承します!」】
【中学校の女子ソフトボール部で一緒だった仲間らとの記念写真。右から2人目。】
【今日は普段通りエサ上げや周辺の清掃をしました。チャボはカラスやマングースに襲われてわずか1羽になりましたが、大事に育てています。心然はチャボを抱けるようにし成長しました。】
【林間学校で鳥居を建てましたが、あれから約10年。古い方の鳥居の劣化が激しく危険と思い、今日、撤去しました。杉の木で掘っ建てだったのでどうしても腐ります。鳥居は日本の木造の「原点」。2本の柱で建つ「鳥居」は単純ですが深い意味や構造が隠されています。少し寂しい思いをしました。しかし、木は再生できます。】
【後で栗の木で建てた「鳥居」は健在です。長生きしてもらうために今日、笠木に板金を施しました。】
【古い鳥居と一緒にあった郵便ポストも移動しました。・・というか元の位置に戻しました。これも単なる土に掘っ建てだと長生きしないので工夫しました。柱の下部を木の楔や石で固めて宙に浮かせました。つまり「宙に浮くポスト」です。現在進行中の住宅にも36p角(八角)の「宙に浮く心柱」があります。右奥に立て直しました。】
【現場は少しずつですが前に進んでいます。明日やっと玄関の小屋根の拝み破風を取り付ける予定です。この小屋組みは、入母屋の一部葺き降ろしで蓑甲納めです。しかも隅木は4.5寸と5寸の振れ隅にしました。外壁は二重壁の下見板張り(柿渋塗り)で現在捨て板のヒノキ板を張っているところです。上部はモルタル塗り下地漆喰仕上げの予定です。】
【反り屋根の破風に付く「懸魚(げぎょ)」。明日取り付ける予定です。】
【こちらはその「懸魚」につく「鰭(ひれ)」です。上が表で下の写真が裏の仕口です。土曜日はまだ仕上げ途中でした。親富祖棟梁が仕上げています。彫刻は娘です。】
【懸魚に取り付け予定の「六葉」の「樽の口」を加工中の仲宗根大工さんです。「六葉」の彫刻も娘がしました。ともに「明日の出番」を待っています。】
【現場からヤード(作業場)経由での帰り道、目の前に「中城北中城消防本部」の救急車が走っていました。私自身もお世話になった救急車。よくみるとナンバープレートが「119」でした。自宅の近くまで一緒でした。心のなかで手を合わせました。】
【「♪梅は咲いたか 桜はまだかいな?♪。」我が家の浴室横の梅が開花しました。近くの桜は咲いていますが、我が家の桜はまだ咲いていません。昨年は梅の実が余り付きませんでしたが、今年は期待できそうです。小3の「こだまこ」が昨年自由研究した結果では梅干しは肝臓に良いらしいので、今年は自家製の梅干しづくりをしようと思います。】
いつの世も生きていれば悩みや迷いはついて回ります。きついことの方がきっと多い。しかし、くよくよしても仕方ないので、前を見て行こうと思っています。
高知大学医学部付属病院の藤枝先生からの年賀状にも一言「前へ進めます。」とありました。脳性麻痺の改善治療を「国内医療」に託すことを年賀には書きました。時間がかかっても国内での「さい帯血による再生医療」に夢を架けたいと思います。
3年前の武漢発のコロナ感染のときも、内部告発があったにもかかわらず隠ぺいして春節時に出国を野放しにした結果、世界にウイルスが広がりました。
WHOは当時調査員を派遣しましたが、なしのつぶて。さすがに今回は政策転換で爆発的に増えた9億人と言われる中国国内の感染者数が不透明なため正式な数字を出してほしいと言っているようですが、あの国ですから無理でしょう。
ロシアのウクライナ侵攻や爆発的な中国のコロナ感染、北朝鮮の核・ミサイルなどに対して「国連」は何もできないのだな,と実感しています。第二次世界大戦の戦勝国がいまだに常任理事国で拒否権を乱用している状況なので、世界の秩序が守られるはずがありません。日本は非常任理事国ではありますが、最多の12回選出されていて、特に今月は議長国。国連改革を他国に働きかけて、常任理事国を増やすことや常任理事国を選挙で決めること、戦争を始めるような国は常任理事国から外すようなことなどを進めて欲しいと思います。
さて身近なところでは、次女・亜和(あや)が無事、北中城村の「はたちの集い」での挨拶や実行委員会の活動を終えました。
【1月8日はそのようすがリアルタイムで配信されました。その映像を千葉の長女が撮ってくれていました。「私の夢」を発表する亜和。「伝統建築の大工棟梁になって、日本文化を継承します!」】
【中学校の女子ソフトボール部で一緒だった仲間らとの記念写真。右から2人目。】
【今日は普段通りエサ上げや周辺の清掃をしました。チャボはカラスやマングースに襲われてわずか1羽になりましたが、大事に育てています。心然はチャボを抱けるようにし成長しました。】
【林間学校で鳥居を建てましたが、あれから約10年。古い方の鳥居の劣化が激しく危険と思い、今日、撤去しました。杉の木で掘っ建てだったのでどうしても腐ります。鳥居は日本の木造の「原点」。2本の柱で建つ「鳥居」は単純ですが深い意味や構造が隠されています。少し寂しい思いをしました。しかし、木は再生できます。】
【後で栗の木で建てた「鳥居」は健在です。長生きしてもらうために今日、笠木に板金を施しました。】
【古い鳥居と一緒にあった郵便ポストも移動しました。・・というか元の位置に戻しました。これも単なる土に掘っ建てだと長生きしないので工夫しました。柱の下部を木の楔や石で固めて宙に浮かせました。つまり「宙に浮くポスト」です。現在進行中の住宅にも36p角(八角)の「宙に浮く心柱」があります。右奥に立て直しました。】
【現場は少しずつですが前に進んでいます。明日やっと玄関の小屋根の拝み破風を取り付ける予定です。この小屋組みは、入母屋の一部葺き降ろしで蓑甲納めです。しかも隅木は4.5寸と5寸の振れ隅にしました。外壁は二重壁の下見板張り(柿渋塗り)で現在捨て板のヒノキ板を張っているところです。上部はモルタル塗り下地漆喰仕上げの予定です。】
【反り屋根の破風に付く「懸魚(げぎょ)」。明日取り付ける予定です。】
【こちらはその「懸魚」につく「鰭(ひれ)」です。上が表で下の写真が裏の仕口です。土曜日はまだ仕上げ途中でした。親富祖棟梁が仕上げています。彫刻は娘です。】
【懸魚に取り付け予定の「六葉」の「樽の口」を加工中の仲宗根大工さんです。「六葉」の彫刻も娘がしました。ともに「明日の出番」を待っています。】
【現場からヤード(作業場)経由での帰り道、目の前に「中城北中城消防本部」の救急車が走っていました。私自身もお世話になった救急車。よくみるとナンバープレートが「119」でした。自宅の近くまで一緒でした。心のなかで手を合わせました。】
【「♪梅は咲いたか 桜はまだかいな?♪。」我が家の浴室横の梅が開花しました。近くの桜は咲いていますが、我が家の桜はまだ咲いていません。昨年は梅の実が余り付きませんでしたが、今年は期待できそうです。小3の「こだまこ」が昨年自由研究した結果では梅干しは肝臓に良いらしいので、今年は自家製の梅干しづくりをしようと思います。】
いつの世も生きていれば悩みや迷いはついて回ります。きついことの方がきっと多い。しかし、くよくよしても仕方ないので、前を見て行こうと思っています。
高知大学医学部付属病院の藤枝先生からの年賀状にも一言「前へ進めます。」とありました。脳性麻痺の改善治療を「国内医療」に託すことを年賀には書きました。時間がかかっても国内での「さい帯血による再生医療」に夢を架けたいと思います。
posted by 塾長 at 00:49| 教育・子育て
2023年01月02日
令和5年 明けましておめでとうございます。
世界がロシアのウクライナ侵攻で戦争状態であるなか、日本では安倍元総理大臣が選挙応援中に銃弾に倒れるという、激的な社会状況が続いています。
今年も決して安定した年とは言えないと思いますが、世界観や国家観を持ちながらも、身近な社会で生き抜いていきたいと存じます。
さて大晦日まで忙しい日々が続きましたが、一夜明けたら元旦を迎えることができました。
昨日の一日をお伝えします。
【大晦日の餅つきの片づけが元旦の朝の仕事始めです。薪(たきぎ)の木材を燃す時出た煤(すす)が鍋にこびりついています。これは先人の知恵で残った灰でこさぎ取ります。】
【家の床下や周りにある廃木材にシロアリが来ていたので、全部処分することにしました。その残りの灰を利用して「焼き芋」を作ることにしました。】
【その間、別グループは裏山に休みでずっと布団(ふとん)に寝ている万然(ばんねん)をバギーに乗せて散歩しました。久しぶり外の空気を吸ったと思います。3人が変わりばんこで坂道を押します。湧き水のあるタチガー池に作ったお地蔵さんに万然の治療改善をお願いしました。】
【やっと午後3時ごろ自宅に全員集まりました。昨年だけ書かなかった「今年の目標」を今年は書きました。書いても毎年途中から目標が大幅に変わって無意味になっていたからです。
しかし、それでも「目標」は必要と思い、今年は全員で書きました。家族全体では「健康第一」です。
仕事も学校もすべて健康でなければ進まないと実感したからです。特に私は昨年、腰痛やこむら返り、風邪、コロナなどで松葉杖をついて現場に行ったこともありました。そのほかの家族もそれぞれ目標をもって暮らそうということになりました。】
その後は、例年通りの年初めの儀式。
【昨年作った「梅干し」。果肉が大きくて、完全無農薬の梅干しを湯呑に入れてお茶を注ぎ、ひとりずつ酸っぱい梅をいただきます。「あけまして おめでとう」と元旦を一緒に迎えられた喜びを家族で実感します。
日本は外国と違って、出生した日からではなくお母さんのおなかの中の命もカウントします。それを「数え年」で表します。私は10人の子どものうち7人を自宅出産で自分で受け取りましたので、おなかの中の「命」を実感しています。ひとりずつ数え年を言って挨拶しました。ちなみに私と万然は同じ「ウサギ年」の年男です。数え年は干支(えと)にも合致します。】
その後は「赤酒」で体を清めます。この日だけはアルコールの入った「屠蘇(とそ)」を全員でいただきます。「三々九度」で器に注いだ「おとそ」を呑みます。正月用の花を生けた仏壇の母にもあげます。
呑み終えると、みんな一緒にあたらしい年を迎えられたので「明けまして おめでとう!」となります。】
【そのあとは雑煮の昼食です。大晦日に搗(つ)いたお餅が入っています。出汁(だし)は熊本風のトリガラです。子どもたちにとってはこの後の人生で「後藤家母の味」として記憶されると思います。】
【夕食は妻が作った「おせち」です。その前に残り火の消し炭に入れてできた「焼き芋」をみんなでいただきました。甘くておいしい!】
【今年は料理する妻が12月30日まで仕事だったので、スケジュール的には無理だろうと思っていました。しかし根性者の妻は意地で17種類の「おせち」を作り上げました。
いつものように黒豆や栗きんとん、エビ、尾頭付きの煮干し、酢の物のいわれを説明し、また、主婦が正月だけは家事が減るように「おせち」を3ヶ日はいただく、というようなことを説明しました。いつもは贅沢できない家庭事情の中で元旦だけは少しだけマグロと出世魚のブリの刺身をみんなで分けていただきました。
ワサビはこの日だけは「本物」。仕事もそうですが、なんでも「本物」を知っておかないと何が「本物」か分からなくなるからです。780円のささやかなる贅沢です。】
昨年は病気やケガ、感染などで家庭的には苦戦の連続でした。ただ生きていくのに「楽」だけはありません。常に悩みや不安が付きまといます。しかし、心の持ちようで見方や捉え方が変わります。
長い歴史を持つ日本には、絶望のときにも切り抜ける知恵があります。これから1年、日本を探求しつつ、日本人らしく生きていきたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。(合掌)
2日夕刻、初詣に沖縄にいる家族10人で出かけました。行先は毎年参拝している「出雲大社沖縄分社」です。出雲大社と言えば日本の神社の総元締めのような存在。地鎮祭でよく来てもらっています。コロナのこともあるのでこの3年間はここだけで三者参りはしていません。
参拝に来ていた若いカップルに記念写真を撮ってもらいました。快く受けていただき、ありがとうございました。
今年も決して安定した年とは言えないと思いますが、世界観や国家観を持ちながらも、身近な社会で生き抜いていきたいと存じます。
さて大晦日まで忙しい日々が続きましたが、一夜明けたら元旦を迎えることができました。
昨日の一日をお伝えします。
【大晦日の餅つきの片づけが元旦の朝の仕事始めです。薪(たきぎ)の木材を燃す時出た煤(すす)が鍋にこびりついています。これは先人の知恵で残った灰でこさぎ取ります。】
【家の床下や周りにある廃木材にシロアリが来ていたので、全部処分することにしました。その残りの灰を利用して「焼き芋」を作ることにしました。】
【その間、別グループは裏山に休みでずっと布団(ふとん)に寝ている万然(ばんねん)をバギーに乗せて散歩しました。久しぶり外の空気を吸ったと思います。3人が変わりばんこで坂道を押します。湧き水のあるタチガー池に作ったお地蔵さんに万然の治療改善をお願いしました。】
【やっと午後3時ごろ自宅に全員集まりました。昨年だけ書かなかった「今年の目標」を今年は書きました。書いても毎年途中から目標が大幅に変わって無意味になっていたからです。
しかし、それでも「目標」は必要と思い、今年は全員で書きました。家族全体では「健康第一」です。
仕事も学校もすべて健康でなければ進まないと実感したからです。特に私は昨年、腰痛やこむら返り、風邪、コロナなどで松葉杖をついて現場に行ったこともありました。そのほかの家族もそれぞれ目標をもって暮らそうということになりました。】
その後は、例年通りの年初めの儀式。
【昨年作った「梅干し」。果肉が大きくて、完全無農薬の梅干しを湯呑に入れてお茶を注ぎ、ひとりずつ酸っぱい梅をいただきます。「あけまして おめでとう」と元旦を一緒に迎えられた喜びを家族で実感します。
日本は外国と違って、出生した日からではなくお母さんのおなかの中の命もカウントします。それを「数え年」で表します。私は10人の子どものうち7人を自宅出産で自分で受け取りましたので、おなかの中の「命」を実感しています。ひとりずつ数え年を言って挨拶しました。ちなみに私と万然は同じ「ウサギ年」の年男です。数え年は干支(えと)にも合致します。】
その後は「赤酒」で体を清めます。この日だけはアルコールの入った「屠蘇(とそ)」を全員でいただきます。「三々九度」で器に注いだ「おとそ」を呑みます。正月用の花を生けた仏壇の母にもあげます。
呑み終えると、みんな一緒にあたらしい年を迎えられたので「明けまして おめでとう!」となります。】
【そのあとは雑煮の昼食です。大晦日に搗(つ)いたお餅が入っています。出汁(だし)は熊本風のトリガラです。子どもたちにとってはこの後の人生で「後藤家母の味」として記憶されると思います。】
【夕食は妻が作った「おせち」です。その前に残り火の消し炭に入れてできた「焼き芋」をみんなでいただきました。甘くておいしい!】
【今年は料理する妻が12月30日まで仕事だったので、スケジュール的には無理だろうと思っていました。しかし根性者の妻は意地で17種類の「おせち」を作り上げました。
いつものように黒豆や栗きんとん、エビ、尾頭付きの煮干し、酢の物のいわれを説明し、また、主婦が正月だけは家事が減るように「おせち」を3ヶ日はいただく、というようなことを説明しました。いつもは贅沢できない家庭事情の中で元旦だけは少しだけマグロと出世魚のブリの刺身をみんなで分けていただきました。
ワサビはこの日だけは「本物」。仕事もそうですが、なんでも「本物」を知っておかないと何が「本物」か分からなくなるからです。780円のささやかなる贅沢です。】
昨年は病気やケガ、感染などで家庭的には苦戦の連続でした。ただ生きていくのに「楽」だけはありません。常に悩みや不安が付きまといます。しかし、心の持ちようで見方や捉え方が変わります。
長い歴史を持つ日本には、絶望のときにも切り抜ける知恵があります。これから1年、日本を探求しつつ、日本人らしく生きていきたいと思います。
今年もよろしくお願いいたします。(合掌)
2日夕刻、初詣に沖縄にいる家族10人で出かけました。行先は毎年参拝している「出雲大社沖縄分社」です。出雲大社と言えば日本の神社の総元締めのような存在。地鎮祭でよく来てもらっています。コロナのこともあるのでこの3年間はここだけで三者参りはしていません。
参拝に来ていた若いカップルに記念写真を撮ってもらいました。快く受けていただき、ありがとうございました。
posted by 塾長 at 10:58| 教育・子育て
2022年12月31日
令和4年(2022年)後藤家10大ニュース
今年もあと数時間で暮れていきます。
世界的にはロシアのウクライナ侵攻、国内的には安倍元総理大臣の暗殺が一番のニュースですが、我が家でも楽なことばかりではありませんでした。
しかし、なんとか正月を迎えることができそうです。
私が選んだ今年を振り返って10大ニュースを列記してみます。
1、 チョ子が死亡 小さな「うりぼう」が巨体になりましたが、残念ながら死亡。
2、 家族10人がコロナ感染 家から出た2人を除く10人全員が新型コロナに感染。・・大変でした。
3、 麻衣(三女)が富山へ 球陽高校理数科から富山県立大学看護学部に入学。現在、現地で自炊中。
4、 万然が風邪で入退院 熱発して血中酸素が不足し南部こども医療センターに緊急入院。その後退院。
5、 妻が北中城郵便局移動 大謝名郵便局から近くの郵便局に移動。障がい児への配慮に感謝。
6、 沖縄建設新聞連載完了 6回の連載だったが、思ったことを全部書くことができた。
7、 車2台買い替え 仕事で使っていた「ノア」をホンダの福祉車両に、エサの草運搬用の軽を三菱に買い替え
8、 APECエンジニア更新 5年に一度の更新ができた。CPD(継続教育)5年間で250時間をクリア。
9、 千葉大学に通う長女が「千葉県庁職員」に採用
10、 亜和が成人 大工見習になって2年目。先日我が家では2人目の成人。村の式では代表挨拶の予定。
その他、朴然がキャプテン 球陽高校2年の長男がバレー部の主将になったことや、心然が「タピック」から「もりのなかま」の保育園移動、また各人の進級があり、教育環境が変わりました。
亜和(あや)も現場で2度ケガをしました。小さな切り傷も絶えませんでした。そんな中、がんばってノミや電動機械などの道具も自分でだいぶ揃えたようです。
いつもは30日に餅つきしますが、今年は30日が雨だったことや前日夜、上棟式兼忘年会をしたことなどで大晦日の餅つきとなりました。
世の中、厳しいですが、厳しい中にも笑顔を忘れず家族一丸となって来年を迎えようとしています。
【馬小屋前のスペースに石で「かまど」を作る。】
【2つのかまどのうち一つには「蒸篭(せいろ)」を置く、もう一つは杵(きね)などを洗う鍋を置く。】
【前日から漬けておいたもち米を晒(さらし)に巻いて蒸篭で蒸す。約40分】
【もち米のふかし塩梅(あんばい)を確かめて、臼(うす)に移す。】
【いよいよ餅つき。長男と次女と心然。】
【中学生の二人】
【下3人。面白かったのは掛け声。いつもは「ペッタン、ペッタン」なのが、心然が今夢中になっているウルトラマンの影響があって。「ペッっタン」「スワッチ」「ペッタン「スワッチ」。なんともリズムが合わなかったが、楽しかった?】
【餅丸め。】
【3キログラムのもち米を2回に分けて蒸したが、2回目は「あんころ餅」。もう心然は食べている・・・。】
【まるめた餅は特製のモロ蓋に入れて保存】
朝から始めた餅つきも、3時前には無事終了。来年に間に合いました。
今年は所属する一心土木設計事務所の前社長の親川様がお亡くなりました。大変ショックでした。とてもやさしい方で、自宅にも何度も来られました。そのたびに子どもたちへプレゼントをされました。技術士の資格が今でも生かされ、生活の一部を経済的に支えてもらっています。ご冥福をお祈りします。有難うございました。
さて来年はどんな年になるのか、全く見えません。
しかし私と障がいを持つ第7子の万然は「年男」。新しい住宅設計も始まっています。病気やケガの多い今年でしたが、自分の仕事に対する考え方は変わりません。難関を突破して新しい年を切り抜けたいと考えています。
【我が家にはウサギが8羽います。このウサギたちとともに生きていきたいと思っています。】
今年もさまざまなところでお世話になりました。ありがとうございました。
世界的にはロシアのウクライナ侵攻、国内的には安倍元総理大臣の暗殺が一番のニュースですが、我が家でも楽なことばかりではありませんでした。
しかし、なんとか正月を迎えることができそうです。
私が選んだ今年を振り返って10大ニュースを列記してみます。
1、 チョ子が死亡 小さな「うりぼう」が巨体になりましたが、残念ながら死亡。
2、 家族10人がコロナ感染 家から出た2人を除く10人全員が新型コロナに感染。・・大変でした。
3、 麻衣(三女)が富山へ 球陽高校理数科から富山県立大学看護学部に入学。現在、現地で自炊中。
4、 万然が風邪で入退院 熱発して血中酸素が不足し南部こども医療センターに緊急入院。その後退院。
5、 妻が北中城郵便局移動 大謝名郵便局から近くの郵便局に移動。障がい児への配慮に感謝。
6、 沖縄建設新聞連載完了 6回の連載だったが、思ったことを全部書くことができた。
7、 車2台買い替え 仕事で使っていた「ノア」をホンダの福祉車両に、エサの草運搬用の軽を三菱に買い替え
8、 APECエンジニア更新 5年に一度の更新ができた。CPD(継続教育)5年間で250時間をクリア。
9、 千葉大学に通う長女が「千葉県庁職員」に採用
10、 亜和が成人 大工見習になって2年目。先日我が家では2人目の成人。村の式では代表挨拶の予定。
その他、朴然がキャプテン 球陽高校2年の長男がバレー部の主将になったことや、心然が「タピック」から「もりのなかま」の保育園移動、また各人の進級があり、教育環境が変わりました。
亜和(あや)も現場で2度ケガをしました。小さな切り傷も絶えませんでした。そんな中、がんばってノミや電動機械などの道具も自分でだいぶ揃えたようです。
いつもは30日に餅つきしますが、今年は30日が雨だったことや前日夜、上棟式兼忘年会をしたことなどで大晦日の餅つきとなりました。
世の中、厳しいですが、厳しい中にも笑顔を忘れず家族一丸となって来年を迎えようとしています。
【馬小屋前のスペースに石で「かまど」を作る。】
【2つのかまどのうち一つには「蒸篭(せいろ)」を置く、もう一つは杵(きね)などを洗う鍋を置く。】
【前日から漬けておいたもち米を晒(さらし)に巻いて蒸篭で蒸す。約40分】
【もち米のふかし塩梅(あんばい)を確かめて、臼(うす)に移す。】
【いよいよ餅つき。長男と次女と心然。】
【中学生の二人】
【下3人。面白かったのは掛け声。いつもは「ペッタン、ペッタン」なのが、心然が今夢中になっているウルトラマンの影響があって。「ペッっタン」「スワッチ」「ペッタン「スワッチ」。なんともリズムが合わなかったが、楽しかった?】
【餅丸め。】
【3キログラムのもち米を2回に分けて蒸したが、2回目は「あんころ餅」。もう心然は食べている・・・。】
【まるめた餅は特製のモロ蓋に入れて保存】
朝から始めた餅つきも、3時前には無事終了。来年に間に合いました。
今年は所属する一心土木設計事務所の前社長の親川様がお亡くなりました。大変ショックでした。とてもやさしい方で、自宅にも何度も来られました。そのたびに子どもたちへプレゼントをされました。技術士の資格が今でも生かされ、生活の一部を経済的に支えてもらっています。ご冥福をお祈りします。有難うございました。
さて来年はどんな年になるのか、全く見えません。
しかし私と障がいを持つ第7子の万然は「年男」。新しい住宅設計も始まっています。病気やケガの多い今年でしたが、自分の仕事に対する考え方は変わりません。難関を突破して新しい年を切り抜けたいと考えています。
【我が家にはウサギが8羽います。このウサギたちとともに生きていきたいと思っています。】
今年もさまざまなところでお世話になりました。ありがとうございました。
posted by 塾長 at 19:23| 教育・子育て
2022年12月22日
万然(ばんねん)が退院!
風邪ウイルスとの闘いを終えて、無事、万然が19日夕刻、退院しました。
2泊3日の闘病でしたが、妻のいない大家族もがんばりました。
医師の話だと、周囲の風邪ひききょうだいから感染したようです。特に血中酸素濃度が低いのは、気道が溜まった「たん」で狭くなっていて酸素が肺に入りにくかったようです。
寝かせ方も、仰向けの場合、肩と頭の下を上げる工夫がいったようです。寝返りを自分でできるようになったので、横向きの寝相でいいと思っていたのも間違いでした。
自分で「ゴホン!」と「たん」を出せない万然。さぞかしつらかったろうと反省しています。看護師さんに吸引器で出してもらっていたので、酸素濃度も93から95〜96に上がりました。
自宅の戻ってきても「たん」取りが必要と思い、薬屋さんから吸引器を購入し、リハビリの時来てくれる看護師さんから使い方を学び、妻が「たん」取りを実践しました。
顔色も良くなって「ぜーぜー」いっていた息もほぼなくなり、食事も摂れるようになりました。久しぶりお風呂にも入り、湿度100%の空気をたくさん吸って元気になりました。
まだ点滴の注射針跡が痛々しいですが、我が家の「光」である万然が食事時、定位置にいると安心です。火鉢の火で部屋も暖めました。
今日から特別支援学校に行きました。入院中に痩せたので、やや心配も残りますが、がんばってほしいと願っています。
【我が家の「光」、万然。久しぶりに南部こども医療センターで再会。退院時は部屋に入れました。】
【看護師さんに病院用の寝巻から外出用の服に着替えをしてもらいました。8年前、救急車で運ばれPICUで治療し、脳性麻痺になった時お世話になった看護師さんはいませんでしたが、どの方も親切で優しい看護師さんでした。担当された医師、看護師さんに感謝申し上げます。】
【いつもの車いすに乗って退院する万然。ひとまず安心しました。】
一方、現場では20日(火)、瑕疵担保責任保険の現場審査を受けました。
【「宙に浮く心柱」を触ってみる検査員(左)。木組みの説明をする私(右)】
【検査員は「一生のうち、こんな現場の検査は1度か2度しかないかもしれない」と言って、虹梁や三斗組(みつどぐみ)、海老虹梁などを写真に撮られていました。】
公私とも目まぐるしく変化のある毎日が続いています。年末に向けて、まだまだ何があるかわかりません。いつものように、今日できることは無理してでも今日片付けて、見えない明日に備えようと思っています。
2泊3日の闘病でしたが、妻のいない大家族もがんばりました。
医師の話だと、周囲の風邪ひききょうだいから感染したようです。特に血中酸素濃度が低いのは、気道が溜まった「たん」で狭くなっていて酸素が肺に入りにくかったようです。
寝かせ方も、仰向けの場合、肩と頭の下を上げる工夫がいったようです。寝返りを自分でできるようになったので、横向きの寝相でいいと思っていたのも間違いでした。
自分で「ゴホン!」と「たん」を出せない万然。さぞかしつらかったろうと反省しています。看護師さんに吸引器で出してもらっていたので、酸素濃度も93から95〜96に上がりました。
自宅の戻ってきても「たん」取りが必要と思い、薬屋さんから吸引器を購入し、リハビリの時来てくれる看護師さんから使い方を学び、妻が「たん」取りを実践しました。
顔色も良くなって「ぜーぜー」いっていた息もほぼなくなり、食事も摂れるようになりました。久しぶりお風呂にも入り、湿度100%の空気をたくさん吸って元気になりました。
まだ点滴の注射針跡が痛々しいですが、我が家の「光」である万然が食事時、定位置にいると安心です。火鉢の火で部屋も暖めました。
今日から特別支援学校に行きました。入院中に痩せたので、やや心配も残りますが、がんばってほしいと願っています。
【我が家の「光」、万然。久しぶりに南部こども医療センターで再会。退院時は部屋に入れました。】
【看護師さんに病院用の寝巻から外出用の服に着替えをしてもらいました。8年前、救急車で運ばれPICUで治療し、脳性麻痺になった時お世話になった看護師さんはいませんでしたが、どの方も親切で優しい看護師さんでした。担当された医師、看護師さんに感謝申し上げます。】
【いつもの車いすに乗って退院する万然。ひとまず安心しました。】
一方、現場では20日(火)、瑕疵担保責任保険の現場審査を受けました。
【「宙に浮く心柱」を触ってみる検査員(左)。木組みの説明をする私(右)】
【検査員は「一生のうち、こんな現場の検査は1度か2度しかないかもしれない」と言って、虹梁や三斗組(みつどぐみ)、海老虹梁などを写真に撮られていました。】
公私とも目まぐるしく変化のある毎日が続いています。年末に向けて、まだまだ何があるかわかりません。いつものように、今日できることは無理してでも今日片付けて、見えない明日に備えようと思っています。
posted by 塾長 at 10:26| 教育・子育て